日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

一旦さようなら哲学書、そして、はじめよう論理学。

こんにちは、哲学書

 

よーし、フィロソフィーだ!ということで、哲学書を読み始めました。

うおっ!大意がたまに分かっても、基本的に何を書いているかわからない。言葉の概念を定義できない。その言葉を仮にそういう言葉として規定して使っているのか、いつの間に指し示されたのか。

 

これをパッと読んで、読解できる人はいるのだろうか。ほげえ( T_T)

とりあえず、自分の論理力のなさに辟易です。論理学をわからずに哲学書を読むなど、フランス語を知らないのに、フランスの本を読む感じとネットに書いていた。そうなのかもしれない。

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今更感は否めないけど、論理的思考って哲学だけじゃなくてパソコンちゃんのプログラムとかにも明らかに役立つよね。生まれて歳月が経ったのだから、新たな開拓にはしつこさと気合いでいく。本当の思惟のスタートラインにも立っていないという。ただ、悲しんでいるヒマはない。

 

それもそのはず。個人的に考えることは楽しい。考えることを失っていない日々は輝いているともいえる。疑問を持つことは喜び。よし、文学の味わい深さは少し眠ってもらおう。曖昧さを八つ裂きにしに行こう。一つひとつの進捗は早いとは言えないけど、やりたいことやりきらんと・・。報われぬ。

 

「理論」という自分があまり得意ではないであろうものを学ぶ。本をいろいろ読んで思うけど、なんだかんだ勉強って思考の基本ですね。

 

理論や哲学があって、その上に科学・数学・国語があるような感じでしょうか。いつもスタート遅いなあとか思うけど、このタイミングではないと始めていないんだなとも思う。「大人になると勉強が楽しくなる」とアダルトな趣を駆使して、好奇心の赴くままに生きてみよう。