独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

ハネムーン後半戦!! 竹富島に行って来たよ。

竹富島に上陸

 

竹富島に行って来た。車は一台もなく、信号機も無い。塀は石で囲まれ、赤い瓦の屋根の上には、厳めしいシーサーがいる。石垣島にいたシーサーと、竹富島のシーサーは表情が違う。

 

植物が生い茂り、海岸で星の砂を探す旅行者は初々しい。家そのものが文化財と化している。あいにくの天候、ざざっとスコールが降っては晴れ間が覗き込んできて、バスガイドのおじさんは豆知識を教えてくれる。

 

しかし、音楽と土地のつながりがすごい。

水牛舎に乗せてくれたおじいちゃんが唄い出せば、待合室にいた島の民であろうおあばさんも唄い出した。なぜ、島の唄にこうも心を掴まれるのか、という疑問が湧いた。

 

「唄」に歴史が内包されている。音楽の重みや説得力は一人の人生では成り立たないのかも。そのいなたい旋律には、人生を紡いできた人々の悲しみや喜び、刻まれた景色、が詰まっていると想ふ。

 

それらが継承されて、心を動かす。その数分には嘘か真か分からないような物語も仕組まれているのかもしれない。音楽と人が近い、作りものではなく、広がるように。「生きていく」と「音楽」が絡んでいる。

 

しかし、真近で見るのと想像をするのでは違うもの。

まず、匂いが違う。正直、島はいい匂いだけではない。甘いというより、苦々しく、淀んでいる。それが、すごく島らしく。都会に生きているとあまり自然や動植物との共存のことを考えない。まるで、現実味がない。

移動していると、常に木が見守ってくれている。身近な存在、大切なものを守ろうとする感覚は何も人にだけ宿るのだけではなさそう。逆に、都会にいるときと何ら変わらない感覚もある。

 

どこまでいっても辿っても、人だなと思う。

最近、純粋に感じる気持ちが自分から乖離しているように思える。なんだ、なんだ。何事だ。守られる側から守る側へと変わっていっているような気もする。ただ、得るものがあれば、失うものもありそう。そうなれば、悶え苦しみ悩んだ時間は貴重となり得る。

うまいことできてます、此の世というのは。 

 

P.S

こちとら新婚旅行のつもりでしたが、

旅行3日目の嫁の「ハネムーンだったの?」が心に響いています。

f:id:sasaworks1990:20170821181107j:plain