独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

いくら通り過ぎても、等間隔の外灯は夜を白白と写す。

深淵な夜に

 

美しく化けるのか。ありのままの毎日を綴るのか。

淀みなく出てくる言葉。主従にどのくらいの美しさが埋没したのだろうか。

私は泣いた。私は笑った。シンプルな文章の力強さ。装飾は至る所で誤解を生む。また、近寄りがたくもある。

 

ひとつの地点からの懊悩もそれを覆った視点からは枯れている。その二つを見比べても湧き上がらない情感。そこには秘密がない。だけど、主軸もない。そこはかとなく解放された黄色は暖かい。平凡な日はメロウ。風琴を単音で鳴らせば、儚くとも上下に揺れる。

 

等間隔の外灯は夜を白白と写す。細分化し、組み合わせ瞬く間に散っては消える。言葉とはそのようなもの。選択の数だけの才能。アスファルトに無作為に行き交う足。その中心点を見つめる目。幻聴と汽笛が誰を呼ぶ。瞬時のフラッシュバックも、あくまで直感的。引っ掻いては通り過ぎる。物語が円く囲う。平坦な道すがらの草花を摘む。夏は終わり、次へと流転する。

 

何処から噺をしようか。人は光るものへと吸い込まれる。そして、穂の先に綴じられ、叩かれる。最後に振り返ろうと嘆願する。生活は辟易の連続。ゆえに、鬱勃した言霊は霹靂だ。感覚の工作がいつも自我を模る。

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