独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

随筆 『彼は育つ。』

彼は育つ

 

母親は、息子を連れて動物園へ行く。檻の中には退屈そうなライオンが眠る。

順番を待ち疲れたかのような、一種の諦念を体内で培ってしまったのだろう。

幼き息子はそんな風に想像した。特に動植物に興味があるわけではない母親は、一周回りさえすれば義務は果たせると考える。結果から先の未来を案ずる大人と、対象について熟考する子供。これしきの対比はよくあることで驚くに値しない。

 

母親は、息子を病院へと連れていく。我が子の無事を案ずる母親は心配でハラハラドキドキとする。幼き息子は、病院の匂いが嫌いだ。それは、ごく直感的に感ずることであり、経験則から得た嫌悪ではない。

 

同じ場所に行けども、立場や経験が違えば感得するものも異なる。そして、「育てる」という行為には必然的に想像力を要する。恩着せがましさに恥じ、自己嫌悪の撞着に溺れていては導けない。

 

矛盾を乗り越え、身を呈してこそ彼は始めて発育する。その瞬間は一生訪れないのかもしれない。しかし、迎えるなら立派に成就させたいもの。誰もがそう願うだろう。母親の腕の中で眠る赤ちゃんは、どんな夢を見ているのだろう。

  

その月並みな疑問に人生の哀れさが表出する。なお、陽気に踊ればいい。

 

忘れるなどはできないが、覚える必要もない。その塩梅を知れば彼は立派に育つのだろう。手持ち無沙汰に過ごす日中も、繰り返しの絶えない道草をしている宵も、萎れた花のような瞳はじっとこちらを見つめる。古ぼけた写真に涙ぐむ。やはり、彼は育つ。

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