独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

性質に優劣はないと知ると、人を受け入れられるようになる。

性質に優劣はない

 

性質というのは、時にどうしようもないものだ。

足が速かったり、遅かったり。性格が明るかったり、暗かったり。

スポーツとしてみるならば、足は速い方が讃えられる。1秒でも早く走るためにアスリートは鍛える。

性質は性質でしかなく、価値の有無とは関係がない。という言説を唱えたい。性質に優劣はないということ。

 

しかし、「一般」という基準がないと、共感が生まれにくかったりするのは確かだ。「足が速い方が良い」という前提があるから、例えば子供とかを褒めやすかったりする。(褒める必要性のあるなしの話はおいといて)

 

「対決」というのは、良くも悪くも盛り上がる性質を帯びている。奮起する糧になるのも事実だ。

 

ひとつの視点として性質に優劣はないと知っているだけで、自然と人を受容できる。

みんな違ってみんないいという原理になるのだから。

 

人を受け入れるということ。

「その心さえあれば、人生は楽しい」というのは極言でございましょうか。関係性の中にしか現実はないのだから。自らで構築している空想だって関係性を取り出したものなのだから。

それは人にだけではなく、自分にも当てはめられる。

劣等感は価値の有無により発生している。性質を性質としてみるなら、「劣る」なんてことはない。

 

「性質に優劣はない」をもっと言えば「事実はそれのみである」ということだ。

営業の仕事をしているある人が、「うまく人と話せず気詰まりする」人だとする。

 

結果につながらないという意味においては、適用できていない。だが、それはただ「うまく人と話せず気詰まりする」という事実があるのみだ。

 

といえども、理論的にはそうなっても、結果や優劣抜きで生きていけないのが社会でもある。また、優劣をつけるのが一概に悪いとは思わない。原理を知っていると、少しでも楽に生きられるのかなと。

 

そして、社会の中に自らの性質がハマる仕事が何かしらはあるように思う。

なので、気持ちの持ちようなどで抗えない自らの性質を知っておくことも大切なのではないか。

 

個人的には、「(依存ではない)人を受け入れる心さえあれば幸福や!」という考えでございますが。

優しさとは、価値の尊さを知ること。

 

そして何だか、とっつきにくい文章でごめんなさい(´Д` )つ(´Д` )つ

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