独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「曖昧に断定に、なおかつダンディに」 断定と同盟を結ぼう。

 

断定と曖昧

 

3年前ぐらいにマレーシアに行ったような行ってないような。

多分3年前です。スマートフォンを駆使し、張り切って色々と写真を撮ったかもしれません。

 

道端とか公園とか茶畑とか、、何かしらの写真を撮った可能性もなくはないような感じもします。写真を撮っていたのとバスに乗って移動したのとご飯が東南アジアの味がしたということしか思い出せないような、もう少しで思い出せそうな(*_*)

 

記憶の断片を叩き起こし、書き記そうかと張り切ったものの、、悲しいような、寂しいような。

 

マレーシアで、めっちゃ変な匂いのする果物を食したような食していないような記憶があります。夜の街が怖かったような怖くなかったような。

 

市場には猿がぶら下げられ、その下では各種野菜が売っていたような、売っていなかったような。

マレーシアのどこかの市場だとは思われますが、マレーシアのどこかは不明のような分かるような。

 

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 マレーシアの人はおおらかだったような、そうでなかったような。。キレイなホテルに泊まり、ホテルの前で100メートル競争をしたようなしていないような。。

 

車の運転が荒かったような普通だったような。飛ばしている車を見た時、「あぶないっ!」と心に留めた記憶があるような、、ないような。

 

そうこれはひとつの実験ですっ!!(突然)

曖昧すぎる文章を読んだ時の歯痒さ。辛さ。書いていて辛かった。

「断定してやろう」「断定してやろう」何度そう思ったことか。

その度にグッとこらえて、ヤマトナデシコの東十条を想い、時にはヤドランメスの体内時計を想っていました。

 

生きていくには、「断定」が必要なんです。

不確定要素を切り刻むためにも、「断定」が必要なんです。

 

もちろん、曖昧が不必要というわけではございませぬ。

「曖昧に断定に、なおかつダンディに」

人生の大鉄則です。

 

旅行、2日目か3日目でみたようなマレーシアの何かの写真でお別れするような、しないような。

 

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