独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「よくある街の店で、よくある日常会話を」 あの時の当たり前は今の特別に生まれ変わっている。

過去を懐かしむ

 

踏ん張っていても、日常に疲れを感じることがある。

その中に充実を見つけるのが掟だ。でも、時には過去に寄り道をする。前に進むヒントはなくとも。久しく会っていない人を思い出すことがある。それは、記憶の中にしか生きていない人々。

   

過去は過去なりに、考えて生きていたはずだ。でも、今の地点から振り返ると「何も考えていなかった」という感想が出てくる。それをいい風に捉えれば成長と呼ぶのか。

 

思い返すと、厚かましい対応をしたものだ。

いわゆる「その年だから許される」ような・・そう思ってみるけど、久しぶりに会うと同じ対応を取ると思う。成長なんて信用ならぬもの。

 

アルバイトをしていた頃、週に2,3回ぐらいもんじゃ焼きをおごってもらっていた記憶がある。お金のことも気にせず無頓着に美味しくいただいていた。おしゃべりをし、少しお酒を飲み、お腹を満たし自転車で家に帰る。

 

少しふらつき、明日を迎えに眠りにつく。

 

その店で豚足を初めて食べた。

今でも居酒屋とかで豚足やもんじゃ焼きを食べる。それらには記憶が絡み、美味しい以外の何かが身にせまる。あの時の当たり前が、今の特別に生まれ変わる。

 

成功に近づく道やら行きたかった道かどうかなんてわからない。進んできた道。

 

立派になったかどうかなんてわからない。

でも、「久々に会っておごりたい」気持ちがある。元気にしていると何よりだと。

時の経過で移り変わりや儚さを知った分、心配が膨らむ。

 

過去は、過去なりの感情で日々を生きていた。楽しかったのか、悲しかったのか、消化していたのか、充実していたのか、わからない。でも、その時の当たり前に少しだけ帰りたい。

 

よくある街の店で、よくある日常会話を。

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