独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

文明は社会という枠組みを作り、人格さえも作る。

昨日のブログのタイトルで青春の疾走感を現すために、「盗んだバイクで走りだす」という一文を入れました。

 

すると、母親から「バイク、盗んだって?本当なら、大変!!」とメールがきました。27歳の既婚者、バイクは決して盗みません。

  

そして、公開処刑みたいにしてごめん(´Д` )笑

 

疑問は疑問を呼ぶ

 

子供のまだいない私は本当の親の気持ちはわからないのかも。女性と男性ではまた違うであろうし、実際にそうならないとあまり想像できるものではありません。

 

・・なぜ、子孫を残すのだろうか。

「なぜ」という問いがそもそもずれているのかもしれない。本能があってこその理性なのだろうか。「何のために」という理由がよく頭を掠める。こればかりになると、排他的になる。何か目的以外を排除しているように感じる。

 

しかし、排除するからこそ達成できる面もありまして。その一長一短を見ては、煩悶を繰り返す。「両方の側面を使いこなせればいい」ただそれだけのシンプルなことではございますが。

 

子供とは守るべき存在、教えられる存在、「何のために」を考えていない存在?無邪気におもむくままに生きている。しかし、成長するにつれ考えるようになる。なぜ、考えるようになるのか。ひとつは社会の共通のルールを覚えなくてはならないからだろう。

 

社会に共通のルールがないと

 

ジャイアンが優勝!ジャイアンが支配!

 

的なことになる(´Д` )大変

 

民衆を掌握している時代に生きたこともなく、想像の領域を超えられない。文明はルールを作り社会となる。個々に違いはあれども思想や行動に影響を与える。人格形成に国のあり方が含まれることはまず間違いないように思う。

 

そういう意味で、自国を知るのは自分を知ると言える。国だけではなく、アイデンティティの形成を手伝ったものを掘るのは自らを掘っているようなものだ。

 

日本は頑張れば、それぞれの得意を職業とできるように思う。そうできない国もある。文明のあるべき姿とは一体なんなのだろう。

 

進化と衰退を目の当たりにする10年。

それはいつの時代にも言えることなのかもしれない。

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