独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「文体と歌声は同じところからきている」 影響と分析とスタイルについて

手島葵と書いて奇跡と読むのでしょうか。

高尚的であり、清らかさも不憫さも兼ね備えた歌声です。

手島葵を聴覚に有しているときと、高級なホテルの一室にある真っ白なシーツに包み込まれたときは同じ感覚です。

 

侵してはならぬような処女性がたっぷりなのです。

 

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歌声と文体は同じところからきている

 

やたらと突然ですが、歌声(歌い方を含む)と文体って同じだと思うんです。

だからなんだというわけでは一切ございません。

自分のスタイルを作りたいとき、歌い手は好きなアーティストの歌い方を模倣しようとする。意識的ではなくとも、影響を受けているわけであります。

 

もちろん、模倣してもその人にはなれません。結果から言うと、影響を受けた人+自分の歌い方がミックスされます。自分の歌い方は何によって決まっているのか。

それは感性、性格、思想から出来上がっているように思います。この辺りは的確な言い回しが思いつきませんが、大体そういったものから成り立っています。

 

何かそういうのは、同じところから端を発していると思われてならないのです。

 

自分と全然違うスタイルの人を模倣しても、何か落としどころに困るような気がします。これは、そっくりそのまま文体でも言えますね。言葉では表しづらい根源的な「何か」、心というのか種というのか、結局そこが判断しているのでしょう。

 

今回は小説家とアーティストを例にとりましたが、技術的なものであれば大体どの職業にも言えることでございます。「何を当たり前なことを抜かしてけつかる」と思われるかもしれませんね。

 

自分の話をすると「スタイル」をたくさん収集して、良さそうなものを自分に突っ込んでいく!という感じです。基本的に圧倒的にセンスのない自分は、分析だけは怠らずしてきたように思います。微妙なニュアンスを汲み取り鍛える。

 

なぜ、そんなことをするのか。

「自分で自分を納得させるために」・・というと、月並みでございますね。

 

分析癖は生きにくくさせる要因にもなりますが、個性を普遍性に変えるためにはそこを乗り越えなければならないのです。そして、手島葵の歌声に乳房が揺れそうです。

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最後の一文、申し訳ありませんでした。