独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「ニュースの一文さえも吟味する」 情報との向き合い方を考える。

情報への向き合い方

 

判断材料として情報はあるだけあった方が良いように思う。

その反面、情報があると選択に迷いが生じ勢いがなくなるというのも頷ける。

青年よりも大人が落ち着いているように感じる理由として、情報が多く選択肢の幅が広いことが一つあげられるであろう。

  

私は主に本とインターネット、仕事から情報を得ている。

人との会話から情報を仕入れられるともっと情報に強くなれるのだけど、「それはまだ」という感覚がまあまあおっさんだけどある。

 

新聞代わりに時事ネタのサイトを見る。いつも見ているのはだいたい一緒のサイトである。しかし、全然記憶に定着しない。本の方が興味を持って読めているからか情報としても生々しいものが脳内に宿る。

 

ニュースをなんとなく片っ端から見るという風にしていたけど、基礎知識もないのにこれではいけないと改心した。ニュースであろうともっと一文を吟味し大切に読めば情報源として生きてくるのではないか。そんな仮説が芽生えた。

 

基本的に一文を吟味すること自体が楽しい。

「ニュースを味わい深く読む」というと変なニュアンスだけど、もっと深い関心を持って読むべきだなと感じた。一文に対して、疑問を持つなど。

そうやって読んでいるうちに土台ができて、パッと読んでも頭に入ってくるのではないかと。

 

池上彰さんはニュースを読むとき、すでに知っている情報が更新される感覚だと言っていた。状況を理解しているので、さらなる情報は混乱を招かずに整理されるのだろう。

 

一方、これまた何かの本で「情報のシャワーを浴び続けていれば、量は質へと変化する」的なことを羽生さんが書いていた。

 

情報、情報とアホみたいに言っていますが、情報とは何を指し示すのだろうか。

世界を解明するのに哲学や科学、経済学は役立ちます。そのとき、情報はどの位置付けに存在しているのだろうか。

 

哲学や科学や経済学が解明する道具であるならば、情報は解明される側なはず。

情報を理解するためには、結局道具をきちんと使えないといけない。そういった意味で知識やその使い方が同じ情報を同じ情報でなくす。

 

知識をどう使うか。

うまく使うには、記憶の定着の結び付け方を自在に変える。

これがいわゆる発想と呼ばれるものではないか。

 

情報への向き合い方についてすごく人と話したい、そんな夜です(´Д` )

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