さあ、労働の歓びを噛み締めよう。 働き生きる日々で
やる気満々だったのに。ご飯を食べると急に睡眠のスイッチが入るのは、いと悲しい。
決意などは、なんと信用ならぬことか(´Д` )というか、『眠たい』スイッチが入るとスラダンの流川みたいになります。
「何人たりともオレの眠りを妨げるヤツは許さん」と言いたいところですが、全然許します。何人たりとも許しまくりです(´Д` )
労働の歓び
最近は何しているの?と聞かれれば「労働しています」と答えます。
最近、労働がすごく楽しいんです。労働は「苦」みたいな考えはどこかに吹き飛んで行ってしまいました。色んな生き方はあるかと思いますが、労働は生活の基盤であるわけです。
労働の何が好きかというと、リズムを作れるところです。
ヒマを持て余すと、ダラダラスイッチが入りとりあえず寝転がります。
そして、漠然とした不安が不思議な感覚が襲ってきます。何をする気も起きない。地面と自分の体がくっついているのかなと思うぐらいです。
青年の無気力といいますか、本当に辟易です。突如、鬱積とした身体は自らを羽交い締めにします。
強制的に起きなければいけない状況になるまで、ずっと寝転がっている。テレビを見るわけでもなく、携帯をいじるわけでもなく「無」に還っています。死んだボロ雑巾ようなものです。
しかし、そういう生産性のない時間が、普段のスピードを調節しているような感じもします。一定以上のスピードを出せないように制御されているのかなと。
「そういうプログラムが生まれた時から、仕組まれているのかな」という都市伝説めいたところまで考えは翔びます。
話を戻します。
労働でリズムを作っていると、好奇心も倍増してくるのです。
「あれもこれも学びたい」と胸が高鳴り希望のファンファーレが鳴るのです。
これは、完全に労働のリズムのおかげな気がするのです。
強制的にやらされている気持ちであろうと、労働によりリズムを生成できるとは思います。どんどんとこなしていくと、自己肯定感も増すのでしょうか。
楽しさは楽しさを呼び、楽しくなる。
ここどう?どうこうではなく行動、行動、行動です。
ただ忙しさにより過ぎ去っていくものもあるのかもしれません。
そこは、何だか少しさみしい気がします。
労働の先の真価を見よう。労働の道すがら深淵を覗こう。
火が灯る労働の先。ゆらゆらと揺れる。滑らかで似たような風景はずっと続かない。