独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「風景描写はイメージを膨らまさせるためだけに存在するのではない」 描写のための描写を追い求める。

風景描写について

 

情景が頭に浮かぶような風景描写は素晴らしいという一般論がある。

確かにその通りだと思う。イメージを掻き立たせるのは、文章にしろ音楽にしろ創作に必要な要素である。しかし、それだけで良いものなのだろうか。

  

風景描写について私は感じていることがある。

描写のための描写といいますか、文章自体が美しいということが大切なのではないかと思うわけです。

 

三島由紀夫先生はまさにそういう感じがします。文体のための文体的な(´Д` )

 

当たり前ですが、文章を構成しているは、漢字・カタカナ・ひらがなです。描写自体の美しさを追い求めるなら、やはり漢字を知っている知らないで大きく変わってくるのではないか。

 

ただ、たくさんの漢字を知っていても適切なタイミングでぶち込まないと美しい文章にはならない。この辺は感覚・感性が大切になってくるわけですね。

  

もっと美しい文章を書きたいので、漢検の勉強でも始めようかなと思う日々を過ごしていると、友人Hはこう言いました。

「簡単な言葉でどこまで沁みらせられるか、そのためには古文を学ぶべきだ」

ぐぬぬ・・。日本語の元の形、知って損はないぞと。古文の勉強もしようかなと思うわけだす。

 

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描き方で印象が変わる

  

言い方が違うだけで言っている内容は一緒ということは多々ある。

 

例えば、

 

「やりたいこといっぱいあんねんけど、なんもせえへんかったらでけへんし、時間を費やしたら結果は出まっせ。どんな心境であろうと定められた道をいくまでや!!!」

 

と熱燗をぐびぐび飲んでいる酔っ払いが大衆居酒屋で言う。

 

これを難解な感じに装うと・・

 

「並べられた欲望の資質が小生に語りかける。

一つひとつは放置ゆえに錆び、研磨の連鎖は虹を架ける。軽やかだとしても、這いつくばるとしても用意されたアーチをひすたらくぐる」

 

となるわけです。言っている内容は一緒なのに、見せ方でこれだけ変わるわけです。

 

(意識的か無意識的を問わず)印象操作というのは、世の中の至るところにある気がします。広告などはそれを徹底的に考え抜いたものの気がします。

 

とりあえず、日々、言葉の研究に勤しめ、!きえい(´Д` )

 

こらっ!さぼるな、さぼるな。

ゴリラ