独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

憲法は近所のおっさんみたいなものだ。 『「日本国憲法」を読み直す』を読んで

今年は読書感想文をもっと書こうかと。

僕の思考の一部分は読書で出来上がっているはずだ!!!(ハッスル!ハッスル!)

正直に言うと読んだ内容をほとんど忘れている。

タイトルを見て、うっすら内容を記憶しているものはいい。

読んだか読んでないかを忘れている本もかなりある。これはさすがに意味がないのじゃないかと思う。

 

なので、最近は調べながら読むという戦法を取っている。

曖昧な憶測で進むのではなく、れっきとした事実を探求していこう。(ハッスル!ハッスル!)

 

2017は「記すことにより忘れない」という正攻法でいきたいと思います。

ほろっと読書感想文、今年の第一弾に選ばれし本は井上ひさしさんと樋口陽一さんの対談が綴られている『「日本国憲法」を読み直す』です。

 

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なぜ日本国憲法という言葉に恐れるのか

 

タイトルから、なかなかデンジャラスな匂いがしますね。

自分でデンジャラスと言っておいて何ですが、このタイトルでデンジャラスな匂いがすると思うこと自体、価値観が染み付いていると思う節があります。

 

憲法、法律、日本、国家、これらの言葉を聞いた瞬間に畏怖を感じます。

 

日本の国旗を街で見かけると、僕はどこかで慄いてしまいます。なぜ恐れるのか、日本の国旗が戦争を想起させるからです。なぜ日本の国旗を見ると、頭に戦争が浮かぶのか・・。

 

それはなぜだかわからない。

 

ただ、「日本を愛している!」と言うと少し変わった人に見られる風潮が日本のどこかにあるのではないかと。「日本を誇る=右=野蛮=戦争」みたいなイメージだけの突拍子もない図式に自分は染められているのだなと。「野蛮と思われたくない」と心のどこかで感じているのでしょう。

 

どこでその価値観を身につけたのか。これも教育の賜物なのか・・。

 

空気感や風潮を作り出すもっとも根源的な部分は教育だと思います。

ある教育を受けた人たちが集まって、何かをする。

ある教育を受けた人たちの価値観により物事が決まっていく。

こう考えれば、判断には教育による価値観が混ざっている。

 

Miyajima Japan

 

 

憲法は近所のおっさんみたいな存在

 

この本を読んで一番に感じたのは、「普段、国や法のことを話す場面が少なっ!!」ということです。当たり前ですが、私たちは法の下で暮らしているわけであって、日本で暮らしているわけであります。

 

それらはあまりにも当たり前すぎて、実感として日常に現れてきません。

そういった話題が日常的にされない理由は、かなりの部分でそこだと思います。

しかしながら、これらは誰にでも関わっている事柄だとも思われます。

  

専門家だけが話すものではない・・。

知らないことを恥じず、合っている合っていないではなく、市民がもっと話してもいいのではないかと。日本だけでなく、外国の憲法を読み解き国の形を知るのも視野を広げてくれるのではないかと。

 

憲法は崇高なものではなく、関わらなければいけない近所のおっさんみたいなものなのではないでしょうか。(´Д` 。

  

憲法もおっさんも見かけたならば、会釈で終わらせず話してみましょう。

新たな発見があるのかもしれません。