日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「怖いもの」「怪しいもの」にこそヒントがあるのかも。

最近、出かけると意外な人が「ブログを読んでいる」と声をかけてくれます。

なんと嬉しいことなのでしょうか( ^ ^ )/物書き冥利に尽きさらします。

 

昨日もこんな声をいただきました!!

 

うんこ踏んだときに、ちょうど創くんのブログを読んでました」

はい、くそブログです!!

  

(お食事中の方、気分を害された方、すいませんでした)

 

先入観を消し去ろう

 

先入観だけで判断するのはよろしくないかと。

体験していないことを予想で語ることもめちゃくちゃあるけど、その予想は大体何か違う。体験と非体験には大きな隔たりがあるかと。

 

何冊か自己啓発系の本を読んだことがある。どれも似通っていて、「同じことばっかり!!」と思っていた。それ以来、あまり自己啓発に興味を持っていなかったというか、自己啓発はネットワークと相性がいいもので、自分には全く無関係の世界だとどこかで決めていた。

 

自意識過剰型ヒューマンの僕は、「自我やアイデンティティ」とは何なんだ!!という疑問を常に抱いているにもかかわらず、どこかで自己啓発を胡散臭いものと思っていた。「怪しい、怖いものには近づこうとしなかった」と言ったらいいのでしょうか。

 

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うむ、発想の転換だ。

 

そういったものから得られるものもあるぞと。

入り口から遮断するのはよくないぞと。

 

1人では成し得ない。

そのためには人を巻き込めるようなエネルギーが必要だ。

 

そう、自己啓発をエネルギーを高めるものとして捉えれば、すごくプラスに働くのではないかと。そして、教祖やカリスマというのは、エネルギーが高い人のことを言うのではないかと。

 

人を巻き込めるエネルギー、ただ人間ができていないとそのエネルギーは人をめちゃくちゃにさせるものになると思われ。

 

何が言いたいかというと・・。

「先入観で判断するのではなく、自分の力になるように捉えればいいのではないか」というこれまた当たり前のことです。

 

過去に私は「芸術には暴力性が必要だ」と巻き込む力について考えていました。

 

sasaworks1990.hatenablog.com

 

その巻き込む力というのは、どの言い方が正しいのかわからないが熱量・エネルギー・バイブスだと思われ。

 

結局、、これって自己肯定感の強さとも言える気がする。

では、その自己肯定感をつけるには・・どうすれば。

 

というのは、また別のときに書きます(´Д` )

そういえば、ハッピークリスマス!!今から寿司食べに行ってきます。 

 

寿司