日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「数ヶ月ぶりの映画鑑賞」 松本人志監督のしんぼるを観て

めっきり冬

 

11月に入りめっきり寒くなってきました。

一歩外に出ると、冬将軍がほくそ笑んでいます。

こういう季節はMILOが欲しくなりますね。やっぱりココアで心の底から温まりたい。

かじかむ手、震える身体、立つ乳首。わがままバディの生理現象が今年も起こりそうです。

 

f:id:sasaworks1990:20161102084854j:plain

出典 Flickr

 

昨日から冬にしか履かない厚めの靴下を履いています。

これが効果抜群です。家の中ではいつも裸足で駆け抜けてきましたが、やはり靴下が必要です。薄い靴下とは説得力が違います。

 

足しか包み込んでいないのに、全身に暖かみをもたらす。

ありがとう。いい靴下です。

 

ぼんやりと輪郭がはっきりしない靴下エピローグはここまでです。

 

想像力の制限

 

昨日、Netflixというアメリカではケーブルテレビを凌ぐ勢いと言われている動画配信サービスで映画を見ていました。私、本はよく読みますが、映画はほとんど見ません。

なぜだかはわかりません。映画は視覚を使えるので、「想像力が制限されるのではないか」と心のひねくれごんざぶろうが啖呵を切っているからかもしれません。

 

f:id:sasaworks1990:20161102085029j:plain

 

想像力の制限・・

目を開けたまま音を集中して聞くのと、目を瞑って音を集中して聞くのでは聞こえ方が違うような気がします。五感というのは、どこかを使えなくするとその分パワーがそちらに行くのではないでしょうか。与えられた100ポイントをどう振り分けるか(何かパワプロ的ですね)

 

はりきって想像力の制限などと申しましたが、視覚を使わずに想像するとボンヤリした感じに終わることも多いです。

 

視覚から捉えたものはイメージを膨らましやすい気もします。

 

映画「しんぼる」を観て 

 

というわけで、松本人志監督の「しんぼる」という映画を見ました。映画を見たのも数ヶ月ぶりでしょうか。何かすごかった。あっ、ここからは若干のネタバレを含みます(´Д` )つ

 

いかようにも解釈できる感じがすごかったです。

白い壁の部屋から脱出を試みる松本さん、天使のちんちんのスイッチの法則を掴み、だんだんと脱出へと近づいていきます。天使のちんちんのスイッチを押すと、「ほぉっ」という声とともに何かが起こります・・。

 

 

Uny Wongさん(@unywong1219)が投稿した写真 -

 

 

みなさまどういった感想をもっているのか気になり、ネットの海に単身のりだしました。すると、子どもから大人の成長を描いている、言語の習得を表している、現代アートに対する皮肉、おもしろい・おもしろくないという二分法で分けられないなどという意見がありました。(すいません、、かなりざっくりです)

 

私は「それぞれの解釈、つまり、人の数だけこの映画(しんぼる)がある」という何ともありきたりなことを思いました。お前の解釈はどやねん。と聞かれれば・・

 

現代音楽やら現代アートに近い感覚だなと感じました。

作品自体の価値というより、それを作るに至ったプロセス、主題に重きが置かれる。重きをおくべきと言った方が正しいのかな。

見る側にある程度の思考の幅がないと「意味わからん、おもんない」ってなりそうです。

 

話はそれまくりますが、批評ってとても難しいよね。

結局、言葉で意味付けされている限り解釈は無限大なので、批評は真実の表層を固めるものでしかないのではないか。作品の場合は抽象に抽象を重ねているだけな気がする。

 

うだうだ書いたことを簡潔にいうと「言葉の綾やん!言い方一つやん!」ということです。言葉と意味の性質って普遍的すぎないかい。

 

 

しんぼるの映画を観終わった後、とりあえず自分のちんちんを軽く押さえて「ほぉっ」と言いました。嫁は横で寝ていました。