独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

『県をまたげばそこは異国の地さ大作戦』 いつものお出かけをより楽しく♪♪

県をまたげば異国の地

 

47都道府県ある日本、どの場所に行けど『日本』です。

外国というのは、海を渡って行くもの。生まれた時から、そう信じてやまない私たち元農耕民族。今住んでいる埼玉県から東京都に入っても無感動というか、国内という意識におちおちと捉えられます。埼玉の川口駅から東京の赤羽駅などの場合は一駅で県をまたげるので、その感動も薄い。

 

これを何とかできないかと、闇に暗躍するタイプの僕は思いました。

自分が住んでいる町以外を「ここは外国なんだ!」と捉えながら生きるとワクワクするのではないか。

 

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そう思った私めは県をまたぐとき、「これは、外の世界だ!電車という文明の利器に頼っているから気づきにくいけど、自分の住んでいる町から相当の距離を移動しているんだ!!でも、それがどうした!」と自問自答しながらも、県をまたげば海外と心に刷り込みさらしています。

 

『遊びに行った町が違う顔を見せてくれる』・・というのは、やはり言い過ぎで「外の世界だ!」と鼻息をフンガフンガ周囲2cmに撒き散らしていたこと自体を忘れています。

 

それでも、そんな感覚を持っていると『我こそは旅人なり』という自尊心でちょっとしたお出かけもテンションがぶちあがるのではないか?

 

感動は慣れの少なさ

 

ただ、海外にしょっちゅう行っている人は「海外だ!!!」という興奮、海を渡った地に自分が舞い降りた高揚感というものがそもそもあるのか?という疑問に当たっています。(←今ここ!)

 

これに関しては「あまり海外に行ったことがないので、わからない」というくそジャンキーな平凡回答しかできません。おそろしい。

 

陸続きのヨーロッパの人々は、国をまたぐとき埼玉から東京行く感覚、大阪から奈良に入る感覚と同じなのでしょうか?その辺はヨーロッパの人に聞かないとわかりません。すえおそろしい。

 

「海外に行くと高揚感が湧くのは、言語や文化が違うからじゃないの?」そう疑問を持たれるとぐうの音もでません。ここまでの文章が見事に無効化されます。

 

そして、多分・・その通りです!!(´Д` )b

 

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慣れというものは感動をすり減らします。それに対抗するために編み出した『県をまたげばそこは異国の地さ大作戦』のご紹介でした。パチパチ〜