独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

『ガラスの巡り合い』 1000文字小説

 

毎日8時に起きて、朝ご飯を食べる。

ウィンナーとヤマザキの食パン、スクランブルエッグもあれば僕は気分上々である。しばらくして、ろくに出来もしないリコーダーの練習を始める。

 

一人暮らしのこの部屋で練習をするのは少し迷惑なのかもしれない。「うるさい」と言うメッセージを発信するため、隣に住んでいる東南アジア系の人が壁を小突く。

 

練習を開始してから、いつも30分ほど経ってからそれは起こる。「ここまでだよ」壁伝いに東南アジア系の人の意志が伝わる。奇しくも30分ほどは許されるのだ。

 

その人と実際に顔を合わせたこともあるが、とても温和そうな人だ。すれ違った時はとっておきの会釈をお互いにする。そんな東南アジア系の人といくつの季節を超えただろうか。

 

仮に名前を「クォンティ」としよう。

 

クォンティは端正な顔立ちをしており、生活音にリズムがあるほど規則正しいのである。クォンティの隣に引っ越してから花粉が直ったり、給料が上がったりと良いことが続く。

 

クォンティは、何か守り神のようにも感じる。思い起こしてみれば、柔和な瞳の奥に神秘性を携えている。毎朝、壁を叩くのも「これ以上叩くと、運が逃げる」と僕に教えてくれているのかもしれない。

 

ある早朝、大変な事件が起きた。

 

窓ガラスを何者かに叩き割られたのだ。すぐに目が覚めたが、外には出なかった。

もしかすると、犯人の顔を見られたのかもしれない。「話ができる相手ではなかったらどうしよう」そんな思いが僕の足を止めた。

 

ふさぎこんだ気分は、朝ごはんを不味くした。

毎朝続けているリコーダーの練習もやる気が起きない。

 

もちろん音を鳴らさなければクォンティから合図が来ることもない。最初は嫌だったクォンティからの合図もなくなれば寂しいものである。

 

それでも、この日以来、リコーダーの練習をやめた。

 

何日か経った後、クォンティが引っ越していることに気づいた。生活音が皆無になったのである。形容しがたい思いを胸に食料品を買いに出かけた。

 

横断歩道の向こうには、重たそうにスイカを持つおばあさんがいた。ぼけっと眺めていると、おばあさんが近づいてきた。そのおばあさんは、なぜか僕にスイカをくれた。

 

おばあさんの会釈はぎこちなくとも、その瞳の奥は神秘的だった。

「未来も悪くない」僕はそんな確信を得た。   

 

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