独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

誰かの失敗が自分のことのように感じる・・。あなたは「共感性羞恥」を持っていますか?

共感性羞恥を持っているかい? 

ドラマなどを見ているとき、「この登場人物、確実に恥をかくだろうな」と感じると見ているのが辛くなることってありますか?

 

これは、人の失敗があたかも自分の失敗のように感じるものだそうですが、「なぜこの現象が起きるのか」は明確に解明ができていないのだとか。

 

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出典 Flickr

 

この共感性羞恥が起こる要因は色々とあり「同類と思われる」「イメージ低下」「見てはいけないものを見てしまった」などの理由により起こるものなのだそう。

 

お笑い芸人の出川さんが知らない外国人に英語で絡むとき、見ているこちら側がハラハラするのも共感性羞恥だといいます。

 

 

おいどんの共感性羞恥どこいったばい!?

 

「若いときには、この現象が起こったけど今はない」という方もいらっしゃるようです。そう考えれば自分もこの共感性羞恥がいつの間にかなくなっているような・・。

 

「空気が重くなるのは自分が原因だ。」若い頃はよくそう考えていました。そして、実際にまあまあの原因だったとも思います(笑)それが数年経つとみじんもその感覚がなくなっているような。(悲しみ・・)

 

青年時代の揺れるアイデンティティーと共感性羞恥は深い関わりがありそうですね。ちなみにテレビ番組の怒り新党によると、共感性羞恥を持っているのはたったの10パーセントなのだとか。(驚き・・)

 

共感性羞恥は誰もがもっているけど、強く感じるかそうでないかの差だと思います。

 

 

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出典 Flickr

 

子どもの頃は、すごく羞恥心が強かったような気がします。

中学生のとき、当時付き合っていた彼女と遊びにいくことをどうしても母親に言えませんでした。今考えれば何が恥ずかしいのかよくわかりません。

 

これは今でもですが、出会ってしばらくして、その人の名前を呼んでいないともうなんて呼んでいいかわからなくなります(笑)悪いことしているわけではないけど、恥のアンテナがビンビンに立っています。

 

「人見知り、恥ずかしがりの人は想像力が豊かなのだ」と勝手に自分を擁護しておきます。そして先ほどのフレーズ、もう一度言います。恥のアンテナがビンビンに立っています。

 

 

基準のないところに羞恥心は生まれない

 

「人前で性器を出すのは恥」のような社会の文化的な共通認識が関係していると思います。

 

人前で性器を出さないようにしているのは、後天的な学習によるものですね。

そのような学習行動により作られた自分の評価基準を軸に、羞恥心は生まれているはずです。

 

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出典 Flickr

 

それぞれ自分の中の評価基準によって、羞恥心が強くなったり弱くなったりする・・!

 

そう考えると「年をとれば評価基準がだんだんと変わってきている」、つまり「年をとれば価値観が変わっている」というなんとも当たり前なことが、共感性羞恥をなくす一つの原因と導き出されます。 

 

おあとがよろしいようで´д` 、、(ぴぎゃー)

 

 

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