「何かを伝える人は素材と化さなければならない」 三島由紀夫の『禁色』を読んで・・
今日は、びっくりするぐらい個人的な思考に走ります。
嫌いにならないでください(*_*)・・。
三島由紀夫「禁色」を読んで・・
美しすぎる男色家の魅力に「あれよ、あれよ」と吸い込まれる人々、青春の悔恨を取り戻すかのように、美しいその青年を操ろうとする小説家のおじいさん。彼ら彼女らが交わったり、離れたり、乳繰りあったり・・(ぜひ、読んでみてください!)
本も一つのコミュニケーションである以上、禁色は作品を通した三島由紀夫さんとの会話だ。仮に、そのコミュニケーションを「思考を細切れにした洞察のぶつけ合い」と捉えるなら、三島由紀夫さんの右に出るものはいないのではないか。
そして雑多な現実に追われ、生活の瑣事をこなしていくだけでは、彼のような感覚は得られないような気しかしない。
そう思う一方、これを完全な「造りもの」(技術面で解釈)とすると、細切れにした素材を貼り付ける力が異常なほど卓越している人物でもあると捉えられる。
細かな思考によって、幾万通りの素材を作り出している。
そうでないと、あそこまで整頓された文体にならないはず。
三島さんは、その素材の中に自分の人生をも埋め込んだような気がする。
彼の自決の結果論から思うことだけども。
文字を書いたり、歌をうたったり・・・伝える人は素材と化すところから全ては始まるのではないか。
かなり、構造的な話になりつつ、さらに横道に逸れました。
すぐに根源的なところを辿りたがる癖がある僕は、その人が物事をどう捉え、どう向き合い、産み出していくのかが気になるのです。
それをインプットし、自分の作品でアウトプットできればなと(´Д` )
もっと文学的な小説的な観点から、この作品を紐解こうと思ったのですが、古代ギリシャとかの知識が毛ほどもないのでやめます!!笑
よく意味がわからなくても、ごちゃごちゃと考えなくても、読んでみれば三島さんの文の凄みに鳥肌が立つ・・はず。 とにかく、本はタノシイヨ (´Д`