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独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

さあ、どう生きようか。

「年をとる」とは、抗えない厳然たる何かを迎えにいくことなのか。

数年前より、いや、半年前より、どっしりとした感じがする。齢を重ねたがゆえのどっしり。繊細さは経験に包まれあまり顔を出さなくなった。顔を出していたとしても、触れても問題がない。楽観も悲観も安定に吸収された気持ちだ。

 

どうなのだろうか。斑紋のように飛び飛びで生きるべきなのか。自らの好奇心を疑っても何もない。しかし、その心は存在するのかどうかさえ疑わしい。

現実は虚構。さらに、その上に虚構を塗り重ねたのが芸術なのか。

ただ、虚構の賜物は私の心を攫っていく。これは輪郭を持つ持たないに関しない事実。

 

数字に置き直す科学、存在する事実で案ずる生物。

それらを知ってどうする。知らずにどうする。目的ではなく行為に最上の価値を感じるなら、目の前にあるのは壁なのかもしれない。反面、行為の虜になれたら勝ったも同然。

  

目的が自らの作品の純度を上げたいというのなら観念に生きるべきなのだろう。

 

現在地点、もがいているのかも分からない。

跳梁跋扈、引っ込み思案、何だかどちらも有りなようにしか感じない。年齢を重ね堅牢な建築ができてきた。その代わり何かに襲われる感覚は霞み始めた。

時たま引き出そうとする自分がいる。その時点で消失しているとは気づいてるのだけれども。

 

「意味の解釈で世界はできている」そんなことを思いついた自分はすごいんじゃないか、という数年前もすでに死んでいる。その死の地点を遠方と勘違いしているだけで、すぐそばにある気もする。

 

あと、3日後には27歳だ。

答えもなく、名もつけられない状態は生涯続くのだろうか。

はて疑問は持てども、焦りや迷い期待もない。

あれもしたい、これもしたい。好きな人を大切にもしたい。

ただ、今は瞬間の幸せを感じられる。さあ、どう生きようか。

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