独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「あゝ、我が人生よ」 感受性と社会性は両立させられるものなのか?

客観性を円の真ん中に起き、確定的な判断をしないツケが背後に迫り来る。

 

中庸を目指し、ひたすら凸凹を眺め細分化する者。

周囲に目もくれず自ら道を開拓する者。

 

歳月が照らされた瞬間に生きているのはどちらか。

  

前者は品や格式のために排出される言葉を求め組み立てる。

また、後者は実りのために影響をのせた言葉を吐く。

 

同時に並行し得るのは可能か。はて、その目的は。

欣喜雀躍して喜ぶためか。統一はそれ以外の排除を生み、危険を及ばせる。

否、そのリスクをとらなければ統一は逃げ惑う。

 

憧憬により矢印の先を決定する方法。

その方法は諸刃の剣だ。結果、残るのは己の心身。

あなたを心に居つかせ手なずける。ただ、可能と不可能の境界線は曖昧だ。

  

存在とは取るに足りないものであるのか。すでにそこにあるのだから。

 

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 感受性と社会性

 

めっちゃ張り切って書いていますが、簡単に言いますと・・・

「感受性と社会性、2つは両立させられるのか」という疑問を書いたものです。

 

社会でうまく生きていくためには、ある程度はハッキリと自分の意見だったりテキパキした感じを出したほうがいい。「相手に自分はこういう人です」と、意思表示する感じです(´Д` )!だから、あまり考えすぎないほうがいいと思われ。

 

ちなみに、人間は自分がコントロールできない状況に陥ると、ストレスを感じ葛藤ゾーンに入るそう。

 

逆に芸術的な創作は、葛藤や矛盾を何度も掘り起こす作業が必要と思われ。

社会でうまくできている(人間関係がうまくいっている)とあまり葛藤しません。ということは、その場合、創作につながらないのではないかと思うのです。

 

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自分の判断が絶対的と思っていると、新しい発想が生まれない。

でも、絶対的な判断の方が人への影響力はある。

 

う〜ん。。(´Д` )。。。

 

そもそも両立ではなくて、その線も曖昧な気もする。

 

う〜ん。。(´Д` )。。

 

感受性の限界

 

最近、Riddim HunterさんのMVを見て、ひたすら感動しています。

 


RIDDIM HUNTER / 花の唄

 

 

感覚的な話になるけど、人には感受性と社会性のバランスがあると思う。

Riddim Hunterさんは完全に感受性の人だと思うわけです。(100%の主観です!)

  

自分はここまで感受性に振り切っていないなと。

それならば社会性を高めていくべきなのかと。

社会性の要素が多いと、良い唄が歌えないのか。というと、そうではない。

 

そして、感受性の終着点がある気がするんだ。

今日僕は、その終着点が頭をよぎった。(悲しい・・)

 

と、「思考すること自体に意味があるはず」と思い込み、明るい未来の建設に一挙一動を捧げます(´Д` )