音楽とともに
内側に入りすぎると、そういう感覚を忘れがち。でも、外側すぎると、アーティストである必要がないように思ってもしまう。 その狭間で揺れていければと。
一度、お会いして、この人は!!と思って、ヘポタイヤさんにジャケットを依頼してよかった。
東京駅に降り立つと、建築の気合いが違うというか。建築の人の本を読みたい気持ちが湧いてきて。
主観と客観の乖離。昔、母親からあんたこの曲みたいやなと言われた。
今年は、気になる人に飛び込む。(尊敬を持って)
新しい試みもあり、90'sのHip hopの土臭さが感じられたり、いいのができそうです。
想像によるところが多い考察になってしまいますが、民族の嘆きが濾過されてブルースという音楽が生まれたと考えれば、直感的には、合点がいく。
。日本語レゲエの開拓者ランキン・タクシー氏のサウンドシステム TAXI HI-FI から流れるデニス・ブラウンの曲。
音楽してます、というのが恥ずかしくるなるぐらいのレベル。言葉を超えた、ああ。上手くならなきゃ。でも、このレベルまで、辿り着かないと死ねない。音楽してるから、なんとかする。
そんなこんなで、外に出て録音してそれらを繋げて、一つの曲にする、ちょっとしたサンプリング、パッチワーク的なのをやってみようという意欲に駆られまして。
半年かもっと前か、埼玉で日曜夜更し倶楽部をご拝見させて頂いときと比べると、格段に良くなっていた。しかし、どうしても口を挟みたくなる。
創っていたビートを10曲、デジタル配信します。良くも悪くも完全に「笹谷創」でしかありません。似たような感じに飽きた方とかにはきっと新鮮よ。
と、考えるが本質はそんな細々したことではないのかとも思う。パターンの組み合わせで表面を掬い上げても、結局、良いものに辿り着かない。
人間、誰しもがその感性を持ち合わせている、環境か主義かは甚だわかりませんが、無意識へと押しのけているのかもしれない。
いろいろ話したけど、「その人の最大限を出せばええんちゃん」的なことを言っていた。なんか、ハッとしたんです。
70年代?の生音がたまらない。
一回聴いただけでハッと思わせる歌唱とはなんなのだろうかと考ずにいられなかった
身内含め人生は色々濃くなっていく。生かされるためにも、みんなを生かして。価値観をきちんと送り出して、対価を得る。
小説家でも音楽家でも、作品を鑑賞する観点として、私は「この人はどういう思考によりこの作品に至ったんだ」というのがあるのです
音楽は人間が織りなしている、というのはどうしても忘れ得ない
「芸術というものが、もうちょっと世に取り上げられてもいいのではないか」
natural vybzの音がパワーアップしていた。音が深くなっているというか。超かっこよか。
あえて主題やテーマを決めて、ひとつの観点から作品を創っていくのも、つくる人にとっても、聴く人にとっても斬新。
幅があると表現すればいいのか、あのもたつきの魅力よ。音を創る上でもたつきと心地よさはかなり、密接な関係にあるように思う。
音楽聴く人は聴いて、しゃべる人はしゃべって、飲む人は飲んで・・というようになるべく自由さを尊重しつつ、イベントが成り立つように
目的に対して瞬間への没頭が必要。反面、休息も必要。とかく、行動すれば変化はおとずれる。
スレッショルド・・閾値 →ここ超えたら、音圧縮しまっせ
外に出て、少し話をした。お姉さんが屋台のたこ焼きをひとつくれたり、リンクさせていただいた黒韻さん・・乳首つねるいたずらに手馴れていたり
想像や概念は創作を押し進める。同時に、もっと、人の中で、音の中で生きていこうと思えた。
音楽室に置いてそうな、スピーカーもゲット。