心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

自我・感情・人間

"普通に暮らす"ことはそんなに簡単なことではないと、あの時インタビューで聞いたことが頭に浮かんだ。

そういうものがあると仮定して認識させる教育(学校で教える?道徳の時間?)があれば、一般的な意味での不幸な人は減るのではないだろうか。

違うけど同じ、同じ。なので、深刻に聞かない。

それで十分に伝わるという幻を感じられる想像力は多分ある。

虚しさの定期便

その人の言うざらざらは、自分のどの虚無に当て嵌まるのだろうか。

ようこそ、律巴さん。

誰も何も教えてないのに泣くこと、つまり、伝えようとする。そう考えれば、泣くことは本能的であるのか。

思い込むことにより、悩みから抜けようとする人の性

父という役割上、極度の状態以外では精神と態度が分離できるようにしておく、その準備だ!

アンバランスなバランス

コミュニケーションは体験と想像力によるものが大きいのか。悲痛な体験をすると、想像力がそこに引っ張られていくのか。

人は無意識下ですでに知覚しているのか

基本的には、その事柄について知っている分母が大きいほど、解明しやすくまた複雑になる。

今年は言葉を書き殴られれば

理解を示す身振りや手振りは他者に対する敬意ではあっても、"互いを理解している"とは言えない。それでも、伝えようとする。とても不思議である。

調子

この「調子が悪い」はさざなみ程度である。

待つことにした

どことなく気の抜けた、発言。間の発祥地は何処。

ゆえに「形骸化」

「別の像である」という意識が強く働くと、分裂や乖離を引き起こす。

吐瀉物の上で奥ゆかしく踊る。

概念を脳内にコレクションし、「観察」を始める。

ユニバーサルデザインという言葉がある。

抗えない本能を逆手に捉えれると、質の良い鍛錬に繋がる。

後ろに

自らのストレスを転嫁させるための誇大妄想なのか。

「逆理」

精神の動揺はそれまでの世界を瞬時に変貌させる。

詩を書いてみるのです

てらしあわせてみましたが 真っ直ぐにいくしかないようです

虚無.sh

セミの抜け殻。空。積もっていくのに、一歩も動けない。回転させるためになるべく先手を打つように、抜けのないようにしている。

その詩に対して、自分が確信を持てるかというやはり一点。

言葉に興味があるのも、思考をしてしまう癖を患っているからであり、過去に小説を読んだのも、そういう種の癖を持ってそうな小説家たちの思考を知り、感性を近くにみたかったから。

そのビートの上で、何を言うのか。荒波に飛び込む一隻の船のよう。

90年代のチープな打ち込みは、やたらと中毒性がある。

なんとも当たり前な話を噛み締められるように。

細かい心の動き、その記憶は時の経過とともに薄れる。書き記せるうちは書き記しておく。

「生きてることだしやろうか」

マイナスをプラスに変えようとする働きにこそ、人生のひとつの営みがあると考えているが、「生きる」いう観点を「死ぬことを逃す」と置き換えている辺りにそういうのもあって。

依存には人間らしさも含まれている

音楽は嘆きであったり祈りであったり、原始的、神秘的、そういった性質と親和性がある。それは違う側面から見れば、仮定されたものでありもはや幻。仮説を複合させることによる曲芸のような。トリップ。

方法はちがえど、なんだか同じじゃないか。

取材していると表現者に共通していることがなんとなくある。「理解されない」、「理解されていると思えない」。

カウンターであるということ。

感情と行動を分離させないと。身体がもたない。でも、そこに表現が隠れているのではないかと、淡い期待もある。

人間が人間を伝える。

文字を浴びていたのも結局、妄念からの逃走。

そんなしけた顔してどうした。力になれるならなりたい。

心に溜まるものもない。すべてはするりと流れていく。心象は形を変えて表現となるはずが。

創作にとって情報を得るとは新たな素材を貯蓄すること

”川はいつもそこにあるように見えるが、流れている水は二度と再び同じ水ではないとしている。そういうものとして生命があるのが動的平衡で...”

注連縄

首の長い麒麟は 葉を悠々と食べる

誰がために伝うかは、未だに雲の中。

誰かへの憧憬は背中を押しても、決して届かない。諦めが肝心、齢を重ねて思うこと、正しくは諦めも肝心と強く思う

人前で述べる意味や意義。

「表現」という母体を、どの角度で照らし、噛み砕き、伝うのか。