心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

自我・感情・人間

そんなしけた顔してどうした。力になれるならなりたい。

心に溜まるものもない。すべてはするりと流れていく。心象は形を変えて表現となるはずが。

創作にとって情報を得るとは新たな素材を貯蓄すること

”川はいつもそこにあるように見えるが、流れている水は二度と再び同じ水ではないとしている。そういうものとして生命があるのが動的平衡で...”

注連縄

首の長い麒麟は 葉を悠々と食べる

誰がために伝うかは、未だに雲の中。

誰かへの憧憬は背中を押しても、決して届かない。諦めが肝心、齢を重ねて思うこと、正しくは諦めも肝心と強く思う

人前で述べる意味や意義。

「表現」という母体を、どの角度で照らし、噛み砕き、伝うのか。

あたまにうかぶ

感覚の一致というか、何も考えていない状態とは、「何も考えていなかった」と後から認識しなければ生まれないのか。

新しい環境について

ストレスという負荷を受けている主人公(主客)と、それを冷静に眺めている自分(客体)、そのバランスがいいと、新しい環境の負荷は次への火種となる。

目覚めに善悪もなく、ただ平行線をたどる

騒がずともそれは血となり肉となる。奥ゆかしくあれ。

おもってもいない愛想笑いは、表現を殺していくだけ

あと、多分、自分の価値観が誤解を持って伝わり、苦心する。経験からそう感じる。

みんなと「肩を並べられる」安心感は麻薬的だ

時たま古本屋で見かける藁半紙。持ち主を転々と変えて、誰かの手に届くまではそこにずっと佇む。

私は情報ではなく矛のきっさきを感覚に向けて、言葉に落とし込む。

志といえば聞こえはよいが、とどのつまり、様々な角度を見た上でのしつこさ、みたいなものかと。

曖昧という魅力

究極の主観、いつか客観へ。具体性発、抽象性着。

表現、世に出るまでは商業主義に触れない

人間の根源的なことに触れて創作をしている人と出会えて嬉しく。

決して裁くな、赦せ

描いた理想郷には百花繚乱のごとく才ある人物が在る。その一方で、ここには門外漢が跋扈している、と鼻息を荒くする。

本質的なものの評価軸を社会に根ざしていきたい

いずれにしても、貰う側から与える側へと感覚が移っている。還元。

整理つかぬ

鋭さゆえに疲弊を得るなら、フラットに鈍感を夢見し。今日は代え難いという、言葉の意味をなぞらえて。

つらつらと独り言、言葉に落とすこと、書くことによって。

「一時的な対処」を創ることに昇華させる。また、やってくるならまた創る。

「乖の離」

祝福は民に近づき、無垢な心の回転はなぜ怖気づくの。喉を詰まらせ何を伝えようとしているの。

季節を調べた「二十四節気」、これから。

白露に芒種、雨水、となんだか趣深い。

蔵前4273、ありがとうございました。

どうしても、時は流れていくけど、自分にとって、様々な「きっかけ」を繋ぐ場所となりました。

わたしはわたしの道を、あなたはあなたの道を、そうすれば、きっと会える

闇の中で光を手繰り寄せるように、何もなくただ鼓動が早くなるばかりで。

なにものにもなれない者は唯一その者になれる

の前を一生懸命に耕しつつ、遠い先の未来を想像し人生を彩る

自分で決めたことを書き出し、ただ実行する。

否、実行と理論の乖離を乗り越え普遍的な樹木の設立。どの葉も違う色を備え立派に。

人間らしさとは。 心の奥は混沌としているもの

染み付いた性質に一番リアリティを感じた。

『唯』

子を主役に置いた家族はかけがえがなく、素晴らしかった。一つの核となり表情は統一されている。

幸福を願うがゆえに、藝術は存在する

賛否両論あるかと思いますが、満たされた日々に芸術はないように感じる。

「欲望は独りよがり」 その揺籃の中で生きた

そして、忘れることに違和感を覚えなくなる。そう思えなくなる、それはひとつの脅迫にさえなり得るのに。

抽象ばかりではなく、具体性の溝を掘る。

今の所、自分の手は2本で指は5本、すでに定められた中で何を成すか。

心の奥と向き合う

今、録音をしているけど、これが終わればどんな音楽をしていくのか。

奥の方の雑感

おおよそこの感覚の無駄は捨てるべきだ。必要なのは何億の多様性に導かれても受け入れられる度量。