心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

自我・感情・人間

ユニバーサルデザインという言葉がある。

抗えない本能を逆手に捉えれると、質の良い鍛錬に繋がる。

後ろに

自らのストレスを転嫁させるための誇大妄想なのか。

「逆理」

精神の動揺はそれまでの世界を瞬時に変貌させる。

詩を書いてみるのです

てらしあわせてみましたが 真っ直ぐにいくしかないようです

虚無.sh

セミの抜け殻。空。積もっていくのに、一歩も動けない。回転させるためになるべく先手を打つように、抜けのないようにしている。

その詩に対して、自分が確信を持てるかというやはり一点。

言葉に興味があるのも、思考をしてしまう癖を患っているからであり、過去に小説を読んだのも、そういう種の癖を持ってそうな小説家たちの思考を知り、感性を近くにみたかったから。

そのビートの上で、何を言うのか。荒波に飛び込む一隻の船のよう。

90年代のチープな打ち込みは、やたらと中毒性がある。

なんとも当たり前な話を噛み締められるように。

細かい心の動き、その記憶は時の経過とともに薄れる。書き記せるうちは書き記しておく。

「生きてることだしやろうか」

マイナスをプラスに変えようとする働きにこそ、人生のひとつの営みがあると考えているが、「生きる」いう観点を「死ぬことを逃す」と置き換えている辺りにそういうのもあって。

依存には人間らしさも含まれている

音楽は嘆きであったり祈りであったり、原始的、神秘的、そういった性質と親和性がある。それは違う側面から見れば、仮定されたものでありもはや幻。仮説を複合させることによる曲芸のような。トリップ。

方法はちがえど、なんだか同じじゃないか。

取材していると表現者に共通していることがなんとなくある。「理解されない」、「理解されていると思えない」。

カウンターであるということ。

感情と行動を分離させないと。身体がもたない。でも、そこに表現が隠れているのではないかと、淡い期待もある。

人間が人間を伝える。

文字を浴びていたのも結局、妄念からの逃走。

そんなしけた顔してどうした。力になれるならなりたい。

心に溜まるものもない。すべてはするりと流れていく。心象は形を変えて表現となるはずが。

創作にとって情報を得るとは新たな素材を貯蓄すること

”川はいつもそこにあるように見えるが、流れている水は二度と再び同じ水ではないとしている。そういうものとして生命があるのが動的平衡で...”

注連縄

首の長い麒麟は 葉を悠々と食べる

誰がために伝うかは、未だに雲の中。

誰かへの憧憬は背中を押しても、決して届かない。諦めが肝心、齢を重ねて思うこと、正しくは諦めも肝心と強く思う

人前で述べる意味や意義。

「表現」という母体を、どの角度で照らし、噛み砕き、伝うのか。

あたまにうかぶ

感覚の一致というか、何も考えていない状態とは、「何も考えていなかった」と後から認識しなければ生まれないのか。

新しい環境について

ストレスという負荷を受けている主人公(主客)と、それを冷静に眺めている自分(客体)、そのバランスがいいと、新しい環境の負荷は次への火種となる。

目覚めに善悪もなく、ただ平行線をたどる

騒がずともそれは血となり肉となる。奥ゆかしくあれ。

おもってもいない愛想笑いは、表現を殺していくだけ

あと、多分、自分の価値観が誤解を持って伝わり、苦心する。経験からそう感じる。

みんなと「肩を並べられる」安心感は麻薬的だ

時たま古本屋で見かける藁半紙。持ち主を転々と変えて、誰かの手に届くまではそこにずっと佇む。

私は情報ではなく矛のきっさきを感覚に向けて、言葉に落とし込む。

志といえば聞こえはよいが、とどのつまり、様々な角度を見た上でのしつこさ、みたいなものかと。

曖昧という魅力

究極の主観、いつか客観へ。具体性発、抽象性着。

表現、世に出るまでは商業主義に触れない

人間の根源的なことに触れて創作をしている人と出会えて嬉しく。

決して裁くな、赦せ

描いた理想郷には百花繚乱のごとく才ある人物が在る。その一方で、ここには門外漢が跋扈している、と鼻息を荒くする。

本質的なものの評価軸を社会に根ざしていきたい

いずれにしても、貰う側から与える側へと感覚が移っている。還元。

整理つかぬ

鋭さゆえに疲弊を得るなら、フラットに鈍感を夢見し。今日は代え難いという、言葉の意味をなぞらえて。

つらつらと独り言、言葉に落とすこと、書くことによって。

「一時的な対処」を創ることに昇華させる。また、やってくるならまた創る。