心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

新発見・発想の転換

行動と感情をわけていく。そんな日々を暮らす。

真実かどうかではなくて、認識だけ、仮想。それはまるで、プロトコルのようだと。

『創作』未知なる意識や体験が集約されて変容していく過程

鎮座dopenessさんが何かの取材の時に、創ることを「思い出づくり」と仰っていた。

「分類、体系化させること」と「考えるということ」

知識があると物事が立体的に見えてくる。感情に蓋をされていた知的好奇心を取り出せるようになってきた。

次の作品、「残響」をテーマに。

直接音が聞こえてから 150 ms 以上過ぎたころには、音は多数回反射し、反射音の数も増えているため、もはや個々の音を区別して聞くことはできない。

自然と辞書に目が向くのです。

2000も飛んで20年である。httpというプロトコルを使用し、その日限りの知識を得るのだ。

「詩はどの時点で完成と呼ぶのか」というテーマを挙げました

それはもはや論じることではなく、「その人が完成って言ったら完成!」の一言で済む話。そこからあえて言葉を絞り出すと

現実とは、内的な心象の拡張である可能性

”夢の中を生きる”と言いますが、その類のふわふわしたものではなく、こうはっきりと自分の存在と空間が一致した心持ちになった。

みえる電話・パラスポーツにみる性質を活かす行為

つまり、耳が聞こえない方でも電話ができるというサービス。「音声を文字に起こせること」により実現しているが、技術が役に立つ、そのまさに一つの例で、このニュースを見てすっかり関心していた。

蒔いた種の分しか、花は咲かない

結論から言うと精神性はおもてにあらわれる、

「音楽は音楽以外のロジックに翻訳不可能」言語外の思考について

その人をその人たらしめるもの、作品。

「反問ゆえの煩悶!?」世の中をどうみれば

組み合わせ。人は自然をサンプリングし、技術として生かしたりしている。ただ、その視点を持てること自体に余剰があるかないか(貧富の差)が関係しているのかもしれない。

「社会現象」と「ただそこにあるもの」

信念といえば聞こえはよく、執着という泥くささが、時代という激流に耐えて、残ったのものだと思う。

描写、みたものを他のものに例えるのもひとつ。言葉の感覚頼りで、想像で書くのもひとつ。

隣のビルが煌々と照らされ、立派に屹立しているようにみえる。食事を取ろうと、ズズッと音を立て買ってきた麺をすする。

天秤を侮っているものは何も謀れずに、ただ乾きを積み重ねて浪費する

「あなたは愛する人と話すことさえも禁止していないですか」言動は巨大な大木となり命を奪いにくる。

意識しない音や意識しない模様を浮かび上がらせ

木をみて、「これがどうして紙に!!?」と。あらゆる軋轢は損や得を考えてしまうがために生まれるのではないか。

まずは、生活のスタイルを知ることから

特に疑問に感じることなく、エネルギーを消費し、私たちは満足を得ている。私はそのエネルギーはどこからやってきて、どうお金が絡んで、どれくらい残ってて、どういう弊害があって、どういう利点があって、違った活用方法はないのか、など何も知らない。

創作の頭打ちに対して、

100の大胆さを持つなら、同時に100の繊細を持つというのが、いい塩梅と考える。

「数学の世界」良書に出会いました。その時、

聴覚、視覚、感覚。どの「覚」を揺さぶり、どう繋がりお目覚めするか。

人生を楽しみたいなら、知的好奇心を常に更新することさ

尻相撲をさせられたときのような恥ずかしさ!

「美しい文章とは何であろう」 止まない考察

日々、何を大切にして生きているか、そこに違いが生まれ作品に感性が吹き込まれる。

いくら呼んだって返事がない、彼女の返事がない。

昔、祖母は「人は何かに依存しているのよ」と口ぐせのように言っていた。

依存こそが歴史を紡ぐ

不変的な真理とはひとつ、人間の性質であるのだから。

笹谷くん、撮影にミックスダウンと制作中でございます。

そして、自分のアルバムも作らなくちゃ。理想の歌唱にならず3年くらい世に出すのを見送っている。しかし、ソロソロ溢れてくる。

希望ある未来を考えるのは、日常のおつまみです。

硝子戸の中 夏目漱石 馴致じゅんち 木賊とくさ 低徊ていかい 佇立ちょりつ 玲瓏透徹れいろうとうてつ 慰藉いしゃ

営む。

一つ目、物理的風化。岩石の結合がゆるめられ、破壊されていくそうな。

はて、好奇心と踊り明かす。 なんとなく、関係性が見えた。

これを読むと「単位」とかも誰かが決めているんだと、しみじみ思う。では、どうやってそれらを決めていくか、どんな理由により、決めていくか。

大人になった僕は気になる観点が変わってきた。

そもそも、それは何か。世の中、仮定されたものばかりではないかと。道具として都合がいいから仮定されるのか。なぜ、仮定されるのか。もちろん、ひとつは人が生きやすいように、生存本能から仮定するとは思います。

「草臥(くたびれ)と酒の酔い」この一文から軽い考察をしてみたよ。

次、草臥と破滅。草臥と誘い。草臥と庶り。草臥とフカヒレ。2つ熟語を並べて、そのバランスが絶妙だと、何かとタイトルっぽくなる法則が自分の中にある。

「論理学ブーム到来!!」 言葉ゆえに思考。

一人の人物が考えるには限界がある。いくら「柔軟に!」と思っても、どこかで強い思い込みがあるのではないかと。強制的に視野を変えられるのは「言語」にヒントがあるように思う。一番は日本語以外の言語を習得すること。外国に住んで英語で考えるようにな…

芸術と哲学・・。 「別次元の何かを創る」ことと「世界を徹底的に見直す」こと

哲学とか理論の曖昧性と芸術の曖昧性は、全く別個のもののような気がします。前者の曖昧は落とし所や理解への手助けとして、言語を駆使した曖昧性と言いますか、後者は押し出された曖昧性といったらいいのでしょうか。