独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

天秤を侮っているものは何も謀れずに、ただ乾きを積み重ねて浪費する

「あなたは愛する人と話すことさえも禁止していないですか」言動は巨大な大木となり命を奪いにくる。

「僕たちは芋を掘る 明日も明後日もずっと」

半年かもっと前か、埼玉で日曜夜更し倶楽部をご拝見させて頂いときと比べると、格段に良くなっていた。しかし、どうしても口を挟みたくなる。

【めっちゃ宣伝!!!!!!】 10曲入りのビート集をデジタル配信します。

創っていたビートを10曲、デジタル配信します。良くも悪くも完全に「笹谷創」でしかありません。似たような感じに飽きた方とかにはきっと新鮮よ。

日本語に感情は宿り、奥ゆかしさや情緒に身を預けてみる

と、考えるが本質はそんな細々したことではないのかとも思う。パターンの組み合わせで表面を掬い上げても、結局、良いものに辿り着かない。

姑息なネズミは、暇を持て余したネコにやられるばかり。

「何がつまりなの。武史の言葉は機械で無理に揃えたいびつな粒みたい。虫唾が走るわ」

音楽している人が「俺(私)もやりたい!」と思ってもらえるようなイベントにしていきます。

人間、誰しもがその感性を持ち合わせている、環境か主義かは甚だわかりませんが、無意識へと押しのけているのかもしれない。

諦念風

父親が教えてくれた自転車の乗り方。あの日の車輪を思い出せ!

おもってもいない愛想笑いは、表現を殺していくだけ

あと、多分、自分の価値観が誤解を持って伝わり、苦心する。経験からそう感じる。

帰り道の描写

帰り道の描写 カバンを手に引っ掛けて帰路に着く。何十年と昔のカントリー音楽を聴く。どこの土地で生まれたかも知らず、もちろん、その地に行ったこともなく。その音楽は電車に揺られていようとも、新緑に囲まれたかのような心持ちにさせてくれる。 座席か…

みんなと「肩を並べられる」安心感は麻薬的だ

時たま古本屋で見かける藁半紙。持ち主を転々と変えて、誰かの手に届くまではそこにずっと佇む。

私は情報ではなく矛のきっさきを感覚に向けて、言葉に落とし込む。

志といえば聞こえはよいが、とどのつまり、様々な角度を見た上でのしつこさ、みたいなものかと。

『育んだ暗号』

人々の少し先には、話す喜びがある。暖かな対話に包まれていくのだろう。主人公を譲る癖もいつもと同じ。

 楽器として

これほどまでの多種多様、精神的要素も含めた、自由度の高い楽器は

曖昧という魅力

究極の主観、いつか客観へ。具体性発、抽象性着。

研ぎ澄まされた感覚と引き換えに

表現に関しては主観的なものに惹かれるが、主観的というのは強くもあるが脆くもある。諸刃の剣的な、だからこそ、美しく。

「バンド活動を始めて・・」 濃い日々を送っている。

いろいろ話したけど、「その人の最大限を出せばええんちゃん」的なことを言っていた。なんか、ハッとしたんです。

音楽、、好き。

70年代?の生音がたまらない。

『巡回』

雑に書かれたそれらの文字はまさにミミズのようであった。

表現、世に出るまでは商業主義に触れない

人間の根源的なことに触れて創作をしている人と出会えて嬉しく。

どの職種、どの場所、どの選択、とどのつまり、一生懸命、生きるに尽きる

一貫した自己はなく、感覚は共存させられる。思考と無心。

話してみるというシンプルな答え。

立場もやっているジャンルも、関係ないように思う。立場、立場の発言にはあまり馴染めないん。

意識しない音や意識しない模様を浮かび上がらせ

木をみて、「これがどうして紙に!!?」と。あらゆる軋轢は損や得を考えてしまうがために生まれるのではないか。

「高円寺」  間に挟まれた私は、注文した塩のぼんじりを頬張る

そして、帰りにギター屋さんに寄り、弦を購入した。張り替えよう。

歌うことは楽しいことであり、また、奥が深き

一回聴いただけでハッと思わせる歌唱とはなんなのだろうかと考ずにいられなかった

唯脳論を読んで、

あと、この本を読んで面白いなあと感じたのが、視覚は時間を疎外し客観化する、聴覚は時間を前提として内在化する、ということ。

【 MV公開されました!!】 怠惰「地元」

ふっとしたココロの隙間を埋める楽曲です。(喪黒福造かっ!!)

いい日です。

ただ、たわいない話をするだけです。話の内容とかではないです。無言であっても問題なしです。

あるアイデアを教えてもらって・・

十人十色、千差万別、人間が共通する点とはいったいなんなのだろうか。

「すげぇなお前は だが俺は俺だ」

身内含め人生は色々濃くなっていく。生かされるためにも、みんなを生かして。価値観をきちんと送り出して、対価を得る。

取捨選択して生きるということと同様に、誰かを切り捨てなければならないのか

そこを前提にすると、数で見るしかなくなる。つまり、より「多くの人の幸福」が判断を下す理由となる