心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

理解を失うと、途端に強烈な印象を与える。

顔が全く見えない複数の人が裸でいる絵だった。顔が見えないというのは、顔自体を細工しているわけではなく、棚の中に顔を突っ込んで隠したりしているのである。決して、身体の可動領域がおかしくなっている絵ではない。

限定的な共通言語と解釈するのは飛躍が過ぎるが、ある種の暗号的な役割を持つ。

簡単な言葉で要領を得て説明できる人を尊敬する。その一方、これらの用語に心踊る自分に気づく。

「逆理」

精神の動揺はそれまでの世界を瞬時に変貌させる。

「夏の旅」

その装飾物を暖簾に見立て「へい、いらっしゃい」和紙をとめくり、周囲を和まそうとした人々のことを考えながら歩いた。

「人間やってるね」

旧友は上手に例えるものだと、しきりに感心してしまった。

詩を書いてみるのです

てらしあわせてみましたが 真っ直ぐにいくしかないようです

『割り当て』

動く車窓から見えるマンションの光、信号を渡る老婆、

居に安んじ、業を楽しむ

一般的な教養レベルの知識を得んがために、現在、万里一空の精神である。

遠くで鳴っている音が、自分だけに響いたら音楽の始まり

MIDI 。サンプラー。ブレイクビーツ。サンプリング。ケミカルブラザーズ。s1000。BPM。周波数。lo-fi。エリック・クラプトン。

全く自分ごとではない現象や事物に触れることで、自己の感覚も変化していく

部屋を整理してたら、懐かしいフライヤーを発見。東大阪の布施で自分で打ったイベント。ポイントゼロ。原点。座標軸のど真ん中。

22時前、三木悠莉さんの即興の詩を書き起こしてみようとした

投票所はあちらです 早稲田どおり 日曜日

私たちは思考の螺旋的発展を期待する

畏敬の念は、いつからか導きによって、形骸化されたプロトタイプのジャンク品となり得る。

一般的な社会的通念(価値観)と、その人の役割という2つが混同

怠惰(先生)、MCバトルデビューの巻。

自己の方針を定められるのは、「感情」と「前提にある価値観」

久しぶりに本を読んでみた。文字を目で追うのではなく、文字がばっと頭に入ってきた。「読む」というより「見る」に近くなっている。

経済にしろ、空気にしろ、回そうと考える「おもてなし」があらゆる根本なのかもしれない。

お金が手段であるように、今の行動が手段のままであるように。

やたら簡略化して、創るのはただただ知ること。

「ので」にしろ、「+」にしろ、抽象化している。

観察者の私が被験者の私をただ眺めている

ひたすらだ ひたすらにいたいのだ 苦肉の策は もろともやぶれたのだ だが待て あきらめろ

虚無.sh

セミの抜け殻。空。積もっていくのに、一歩も動けない。回転させるためになるべく先手を打つように、抜けのないようにしている。

何層目のメタ認知。

ある側面においては、良心の問題に行き着く。

その詩に対して、自分が確信を持てるかというやはり一点。

言葉に興味があるのも、思考をしてしまう癖を患っているからであり、過去に小説を読んだのも、そういう種の癖を持ってそうな小説家たちの思考を知り、感性を近くにみたかったから。

庭の焼き方が秀逸、メモにそう残っていた。

それは区切り方によるものなのか、一定の箇所を反復して突ける力があった。コントロールの良さ。観察力。

失敗を前提にできるかどうかで、人生で見る景色は変わる。 

たまたま、そう、たまたまと考えていれば、解釈の余地があり前向きにも考えられる。とげとげしくもならず。

警笛を鳴らす人を、「少数派=変な人=関係ないから関わりたくない」というのも普通に変な話。

法律には、憲法という前提がある。それに沿ってるかどうかとか? と初めて知った。法学部の必修科目は憲法だそうな。

前に歩いていかないと後ろに道はできない

お金に興味無いけど、精神だけは起業家を見習うほどに。分刻み。

そのビートの上で、何を言うのか。荒波に飛び込む一隻の船のよう。

90年代のチープな打ち込みは、やたらと中毒性がある。

なんとも当たり前な話を噛み締められるように。

細かい心の動き、その記憶は時の経過とともに薄れる。書き記せるうちは書き記しておく。

創造とは編集である。

素材を共有していく辺りがとても人間の営みらしい。

Angiosperms「継ぎ目」

子どもが葉に水をやる。

行動と感情をわけていく。そんな日々を暮らす。

真実かどうかではなくて、認識だけ、仮想。それはまるで、プロトコルのようだと。

「生きてることだしやろうか」

マイナスをプラスに変えようとする働きにこそ、人生のひとつの営みがあると考えているが、「生きる」いう観点を「死ぬことを逃す」と置き換えている辺りにそういうのもあって。