心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

なんとも当たり前な話を噛み締められるように。

細かい心の動き、その記憶は時の経過とともに薄れる。書き記せるうちは書き記しておく。

創造とは編集である。

素材を共有していく辺りがとても人間の営みらしい。

Angiosperms「継ぎ目」

子どもが葉に水をやる。

行動と感情をわけていく。そんな日々を暮らす。

真実かどうかではなくて、認識だけ、仮想。それはまるで、プロトコルのようだと。

「生きてることだしやろうか」

マイナスをプラスに変えようとする働きにこそ、人生のひとつの営みがあると考えているが、「生きる」いう観点を「死ぬことを逃す」と置き換えている辺りにそういうのもあって。

『創作』未知なる意識や体験が集約されて変容していく過程

鎮座dopenessさんが何かの取材の時に、創ることを「思い出づくり」と仰っていた。

言葉そのものより、その扱いに対するその人の姿勢が居座る。

自我における比較は災難を起こす、それを艶美に表現すると細部に神は宿るとなるのか。

依存には人間らしさも含まれている

音楽は嘆きであったり祈りであったり、原始的、神秘的、そういった性質と親和性がある。それは違う側面から見れば、仮定されたものでありもはや幻。仮説を複合させることによる曲芸のような。トリップ。

「分類、体系化させること」と「考えるということ」

知識があると物事が立体的に見えてくる。感情に蓋をされていた知的好奇心を取り出せるようになってきた。

ローカル特有のパーティの空気が出来上がっている。

ジャンルの統合ではなくて、空気での統一感。これは、なかなか、やろうと思ってできることではない。

「ライブはセックスと同じ」ということを聞いたことがあるけど、その通りだと思った。

陶酔を精神でコントロールしながら、ステージに立つ人と見る人で創り上げていく、相互作用が必要になる点。

次の作品、「残響」をテーマに。

直接音が聞こえてから 150 ms 以上過ぎたころには、音は多数回反射し、反射音の数も増えているため、もはや個々の音を区別して聞くことはできない。

孤独に勝る熱中を信じていたい。

感情的で表面的な情報に踊らされるくらいなら、サイレントマジョリティの存在を信じて普遍的に考えを巡らせていたい。

方法はちがえど、なんだか同じじゃないか。

取材していると表現者に共通していることがなんとなくある。「理解されない」、「理解されていると思えない」。

仮にそうだとしたら、これも極端、音楽人造人間。

音楽にたどり着くまでの背景も音楽に含めたい。鳴っている音が全く一緒でも、ある種の錯覚だとしても奥行きが変わってくる。

ひたすら繰り返し収斂させていく作業。

意識や思い込みはそういった感覚的な練習に作用する。

「あの曲、何というんですか」と聞かれた。これは、選曲冥利につきる。

不思議なもので、思い出になる日、いい日は、あまり、書くことがなかったりする。いい日は「良い日」に集約されている。

考え抜け、私。

頭に浮かんだ以上逃げられない。気づいたからには戦うか避けるか、主体的に選択しなければならない。

根拠のない直感は帆の向く先を変えてくれるのか

マイルスさんの電気時代のアルバムを聴いて、やたらとくらってしまい。

しばらくは淡々と毎日を綴ってみようと思う

音楽のレコードだったり、なぜ、アナログ的なものに惹かれるのだろう。

カウンターであるということ。

感情と行動を分離させないと。身体がもたない。でも、そこに表現が隠れているのではないかと、淡い期待もある。

人間が人間を伝える。

文字を浴びていたのも結局、妄念からの逃走。

con-+tempus

滴る水が蓄積し出来上がる氷柱、その美しさは過程に裏打ちされている。

自然と辞書に目が向くのです。

2000も飛んで20年である。httpというプロトコルを使用し、その日限りの知識を得るのだ。

【祈り/objective-Saw】_新曲を出しました。

どれだけ吠えてみても、ライオンではないものはライオンではないのだ。隣の芝の青さを見るより、自分の芝を可愛がっても案外だいじょうぶかと。

それでも、雲隠れできず貴方だけはそこにいる。

私は六合目に差し掛かり、周囲の景色を確かめる。望んだものはすでに掴み切り、これ以上の目的もない。

感情はいつも時間遅れでやってくる

大人になれば、よりそれぞれが主役。その価値観は自分とたまたま違うだけ。その価値観を貶すことに意味など皆無で、互いの共通点、接点。

集中力は自身を取り戻す力でもある。まさに可能性。 

今ぐらい、他のことを気にしなくてもいい。忘我できることを探すのではなく、忘我しようと試みる。

言葉を知り、美しいと感じられれば大丈夫。

30代を進んでいく時、そこに知性やある種の専門性がなければ変化を起こせず、同じところをぐるりと回っているだけのような。

『カフェの一幕』

彼女自身が店内のレトロな雰囲気と調和しているためか、赤い座布団の上に座った猫は眠っている。