日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

ゆえに「形骸化」

2019/10/07

 

集中することに注力する。制御、その意志の力を習慣とする。ヒビが入れば修復する。破壊と再生を繰り返していく。いつの間にか、随分と遠くまで来てしまった気がする。壊すも、以前には戻れず、認めることでまた強固に。


喜怒哀楽は虚像であり、普段はその像と肩を組む。それでひとつ。「別の像である」という意識が強く働くと、分裂や乖離を引き起こす。では、別の像であると意識させるコネクタの役割を担っているのは、何であるのか。自意識が作り出した大きな存在と暮らしている。


無意識の反応。人格の定義。

例えば、家庭を持つ父親は子どもを躾ける。裁いたり、導いたり、様々な役割を担う。

役割は状態に対して、名前を付けただけだとしても。


すごく断片的であり、割れそうな感覚。

片頭痛が伴う。今日は一日それが続いている。

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「人はなぜ青空の下で飯を食うのか」

 2019/10/04


ふとテレビを観ると、そんな文言が目に入ってきた。飯を食べるというクローズドな行為(米やトマトをあらゆる方向に投げるわけではない)をひらけた空間に持ち込むことにより、真っ白なキャンパスに対する黒い点、特別な領域を確保できるのだろうか。

 

 
全体主義からの一時的解放、それは自己を自己として再認識する精神的行為に繋がりえるのか。青さはどちらかというと、悲しみを想起させる色である。しかし、無限に広がる空を伴うと、爽快さが前面に押し出される。

 


空はなぜ、詩的であるのか。建築物とどう違うというのだろうか。天然に人工。人間の支配下に置けないものに美しさは付随しているのだろうか。

人は空の下でなぜ飯をくらうのか。命題。

理由の起点を人間と考えたが、その遥か先にあるのだろうか。

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藁火サイファーへ

2019/09/26

 

埼玉に身を潜めて数年が経つ。大宮、川口、その辺りは街が栄えている。川口の規模感は大阪で例えると天王寺である。都内で用事を済ませることも多く、なかなか、埼玉の各駅を降りることがない。昨日、初めて蕨に降りた。名前の由来にはいくつかの説があり、「藁火」が変化して蕨になったという説もあるそう。


藁に火。なんと品のある字面。火が持つ神秘性にそう思わされているのか。ああ、使役。そんな蕨駅サイファーが行われているとの情報を得た。単身、乗り込む。だだ広いクラブの個室でそれは行われていた。懸命に言葉を紡ぐその姿に献身的な対応、とても有難かった。


私もその円の一部となり、対話の質を変えてしまう素っ頓狂な言葉を羅列する。それは私の自然な在り方である。不自然に調子を合わせても、篝火が消えるように、精神の拠り所を失うだけである。違いがあることを前提としている相手に対して、失礼でもある。そのままに自然を保つ。その自然をより相手に伝えられるようにする、そのためのキャラクターを考える。


味を変えるのではなく、包装の仕方を。味を変えてしまっては表現する人として元も子もない。自身との対話を重ねている人のラップはとかく味わい深い、技術ではない部分。


キャラクタ性について、よく考える機会になった。自分の躍動を見つめる。

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