『カフェの一幕』
下北沢のとあるカフェに立ち寄った。壁の本棚にはピカソ大全集があり、店内には粋なジャズが流れる。軽妙に話す若者にじっと本を読み思い耽る女性。
照明に布を被せ、薄い橙色に店内は包まれている。少し古びたエプロンを身につけて食器を洗う店員、辺りに配慮をしながら。彼女の目は少し窪んでおり、頬はふっくらとしている。それでいて身体の線が細く、造型物のような、妙なバランスを保っている。
「ここに金額を書き込むのよ」と左手にペンを取り、アルバイトの青年に話しかける。
青年は返事をせずに、こくりとうなづく。お皿を慎重に片付ける彼女の様子は、ふくらはぎにスッと止まった蚊を優しく追い払う瞬間に似ている。
彼女自身が店内のレトロな雰囲気と調和しているためか、赤い座布団の上に座った猫は眠っている。温かいコーヒーを飲んだ私は、水の入ったグラスに手を掛けた。ひんやりとした冷たさを感じた。
「ごちそうさまでした」と自然に言葉が浮かび心が弾んだ。
とげとげしさのない心地の良いお店を後にした。
知らないことを教え合う、それの広がりでいいと思う。
音楽のことばかり考えていると、言葉や文字をつづることを忘れていた。
感情はある種、点線を沿って流れているのに、言葉に落とすことができなくなる。不思議な感覚。何かを選び取るとは、何かを捨てること。
そこに悲観することなど、まったくない。お互いの特質を生かして、補い合える関係こそが良好なのではないだろうか。キャラクターはシンプルにコミュニケーションの窓口であり、看板みたいなものだ。そのサインを受け取り、その人のペースを尊重する。
補い合える、相互的なこと。人間が作った音楽に学び、人間に助けられる。もっと視野を広く言えば、それは人間だけではない。やはり"共生しているという意識"は人を人たらしめるものなのではないか。正解などなく、自分自身が納得するものに意味をもたせるだけ。たまたま、それがお金儲けだったりアートだったり。別になんでもいいと思う。それぞれの生き方。
偶然そうだっただけ。上も下も何もない。
だからこそ、教育というのは非常に難しいものなのかもしれない。考えすぎても何もできない。考えなさ過ぎてもよくない。塩梅。
知らないことを教え合う、それの広がりでいいと思う。
週末を振り返り
そして、週末を写真で振り返ってみます。ひたすら音を浴びた。
音楽みたいな人間になりたい・・。音楽みたいな人間?(ちょっと待てぃ!って千鳥さんに言われそう)
EARにて百花繚乱。
開店前
かずきくん、ライブ
なんだかんだあって、
セーラームーン...!!
日付変わって中目黒solfaへ。
ミラーボール
ライブペイント
そんなしけた顔してどうした。力になれるならなりたい。
執筆しているという意識もなく言葉を綴らせていたのは悲哀や感覚だったのか。満たされた感情は次の言葉を消していくのだろうか。心に溜まるものもない。すべてはするりと流れていく。心象は形を変えて表現となるはずが。
それを淀みなく循環させることは、つまり、インとアウトの交差する点に居ること。統合されてひとつの、そのもの自身がそのものになる。栄枯盛衰、資本主義をなぞらえた上での結果は死ぬ直前にどういう作用をもたらすのか。
世は移る、人は移る。
うつりゆくその中にいるならば、まだ見ぬ世界へと、
人々と感情を共有しながら、没入していく体験に価値を感じる。
そんなしけた顔してどうした。
力になれるならなりたい。
心象記2