日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「離島に行く計画をひそやかに立てる!」 そして、ユビキタス社会の恩恵を受ける。

離島に行こう

 

離島に行こうとなって、必死にパソコンで探しています。すぐパソコンです。ユビキタス社会ど真ん中を闊歩しています。離島と言えば、石垣島やら西表島なのか。久しく旅行もいっていない。色々と行ってみたいなと思いながら、前回いったのがいつなのだろうか。

 

東南アジアに仏教を触れる旅にも行ってみたい。良い経験なりそう。物理的な意味でも、世界の広さを肌で感じたいのだ。外ばかりに目を向けて畑を耕し忘れるのはあれだけど、ふらふらと旅に出たい。

 

旅行の場所をぺちぺちと調べていると、逆に埼玉県に行くのもありじゃないかと思えてきた。埼玉県民になって2年くらい経つけど、埼玉の名所、一つも言えない。近所にある「餃子の満州」が美味しいぐらいしか言えない。(写真はお手製の塩焼きそば、2013年作)

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渓谷を攻めるか、秩父を攻めるか、はたまたガリガリくんの工場を見学に行くか。

ぬぬぬ。。

 

そして、島ってどんな歴史をたどって来たのだろう。国同士の土地争いの対象の歴史なのか。島といっても色々あるけれど、どんな民族が住んでいたのだろうか。風習はどうして生まれたのだろうか。風習も権力を集中させる為に、生まれたのだろうか。基本的に解明出来ないことを神頼みにして、それが風習となっていくという流れなのだろうか。

 

いつも、疑問ばっかり。つらつらと綴ると疑問系で終わってしまうんです。

遠いところに想像だけでテレパシーを飛ばす。そう、曖昧なままの方が情感が膨らむこともあるんです。最近、Youtubeでサイエンスチャンネル見てますが、なんと便利な世の中だ。ユビキタス社会ど真ん中。(2回目)

 

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人間いつまでたっても、恋と経済はわからないものです。

恋と経済

 

何回説明を聞いても、2ヶ月後にはどういう内容やったか忘れているランキング発表します。栄えある第1位は・・どぅるどぅるどぅるどぅるどぅるどぅる・・

 

インフレとデフレ

 

ついこないだどういう意味やったっけて調べている。そして、インフレとデフレという言葉を見かける。そして、調べる。いろんな方がめっちゃわかりやすく書いてくれていたりする。読む、なるほどなあと納得する。そして、忘れる。

 

パソコンさんのネットワークのインフラ知識をかじっている私は思った。実態のないものは掴めそうでつかめない(´Д` )腰を据えて学ばないといけんと実践的にならんよね。。

 

ああ、経済って難しい。時代の流れを読むなら、ぜひ勉強したいけど、言葉の意味をきいて、要素が絡み合いすぎて、そこからどう予測立てるのか!こんちくしょうと思ってしまう。

 

ああ、心の物価が上がりそう。

 

堅い話はここら辺にして、自分の初恋は幼稚園だったと思う。多分あの人というのが頭に浮かんでるが、遠い昔すぎて途中で初恋の人が入れ替わっている可能性がある。(なんと適当な・・)

初恋のことは忘れたけど、好きな人のことを意識して、変な絡み方して、「きしょ」と言われた時の切なさはいい思い出です。

 

27歳となってしまった今、嫁との時間が安息みたいな感じはあるけど、そういう淡い「恋」みたいな感覚が一切ない。女性に対する意識も年を取れば変わるものなのね。いいのか悪いのか、異性を異性として見る感覚が希薄になった。街で淡い感じのカップルを見かけると、ほっこりとする感じになった。

 

主観者から傍観者へと変化するのもいい心境です。

気がつけば、This is オジさん(´Д` )bいやいや、人間いつまでたっても、恋と経済はわからないものです。

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「オタクのすすめ」 おたく心の上に花は咲く。

圧倒的な量を誇るおたく

 

個人的には何かしらのおたくであった方がいいと思う。「質」の最低基準は圧倒的な量がだと思う。単純に量だけではないけど、音楽が好きな人がCD2万枚持っているのと、100枚持っているのは違う。

 

どんな聴き方とかもあるだろうけど、圧倒的な量というのは、本当に好きじゃないと達成できない気がする。別にCDの枚数だけではなく、練習にしろそうかもしれない。毎日、毎日、ひたすら続ける、目的のためでも、どこかしらに「好き」という気持ちがあるのではないか。 

 

そして、追求心があるのとないのとでは、世界の広がり方が全く違う。追求とは掘ることで、時たま地上に顔を出せなくなる。でも、掘ったところは埋まらない。追求がないと同じところをぐるぐるぐるぐる回る。どっちがいいとかはないけど、圧倒的な量に支えられていると捉え方がそもそも変わってくる。感覚的天才はどこかにいるだろうけど、圧倒的な量は非凡な才能を凌駕する。ウサギとカメの話的な。

 

何かのおたくというのは、けたたましく強い。評価の対象、批判の的になるようなところまでいくと、それはもう立派なブランドだ。その上で、人様の前に出るなら、確固たる何かがないと・・。

 

お笑い芸人は、お笑いで真っ向勝負する。音楽人は音楽で真っ向勝負しなきゃ。へらへらと自分を納得させて、愛想で音楽をしても仕方がない。と、、非常に自分に言いたい。確信的な自信が持てていないというのが、ありありと自分でわかる。

 

様々なものをブレンドさせるのは素晴らしい。本質を抽出し当てはめるのも、その人にしかだせない色がでる。ただ、音楽は音楽、文章は文章、写真は写真、その黄金比がくずれると人の心は打てない。

 

勝手な決意表明みたいで固くなりましたが、自らの土台はおたく心。好きの延長線上がプロフェッショナル。人生使って、証明しよう。花咲かす。

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