ただ過ぎる時間に時間に身任すか 視点ぐっと上げ世を見渡すか。
さあ、集中、集中
筆忠実と書いて、ふでまめと呼ぶ。
そう、梅雨が来るやいなや、文章を綴るペースが落ちております。筆太郎のペースを戻さねばと思いながら、こちとら規則的でありながら、なかなかに濃い日常を過ごしています。気持ちはナマモノで、同じ事象を別の日に書くと違ってくるものです。
熟考して書くのもアリだけど、テンションのままに無心で綴るのがやはり清々しいです。
忙しいと次の行動に目移りしてしまうけど、「今」への集中力を大事に生きたい。
曖昧にせめて目移りしがちなところはございますが、最後までよく噛んで噛んで食べるのです。
あらゆるひと時をグッドタイムにしよう。
ハードな仕事も、リラックスする瞬間も。先を掴みにいけども、まだ確定されていないわけです。ひとつのものに集中することこそ、好奇心を掻き立てるわけです。
無数の情報に選択の素晴らしさが埋もれてしまいがちですが、選び取れるのですから。選択は無数の他を捨てるので、勇気がいる。そんな自明の理にビクビクしていても仕方がない。と言いながらも、ああやこうやして、時間が過ぎたことにさえ気付かない。
振り返る時間、気付かない時間、それはふりこ時計のようにただただ行ったり来たりしているのか。注力と集中力が吸収力になりぬる。
ここまでの文章は「AREA AREA」の一節に集約されていたと気づいた。おそろしや。。
ただ過ぎる時間に身任すか 視点グッとあげ世を見渡すか
世界を切り開くのは自らの視点でございます。
しかしながら、ブログの色調が暗くなるのは、回顧や内向に重きを置いてしまうからでしょうか。明と暗が頭を駆け巡ってきたけど、その二つではわけられないところまで走りましょう。もちろん、足で(´Д` )b
時に振り返るのは悪くない。こんな最高のものがあるのだから(´Д` )
「日本の美術シリーズを開く時がきた!」 買ってからいままで放置しててごめんなさい。
ジャミロクワイと朝
最近、朝の5時半とかに目覚める。夏が近づいてきた証拠かなと。
そしてそのまま脳が起きていない状態でジャミロクワイを聞く。すると、オシャレな気持ちになれる。人ごみとは真逆のような、目を瞑ると軽やかに草原を走り抜けています。
声がオシャレ。これは思わず熱が入ります。
いよいよ、あの本を開く時がきた
1ヶ月まえぐらいだったかな。
自由が丘のストリートでやっているイベントに顔を出しました。
そこには、「どこからきたんですか?」と聞くと小さい声で「ジャミロクワイ」と呟きそうなほどオシャレな人たちがたくさんいました。アンニュイ感じというか。
ジョン・レノン風の丸メガネを掛けている人がいっぱいいた。丸メガネはオシャレだもんね。自分は目が丸いので、丸メガネは掛けませんが。
燦々と降り注ぐ太陽といわゆるグッドミュージックに耳を傾けます。
すこぶる伸びやかな気持ちになりました。しかし、、本題はすこぶる伸びやかな気持ちになったことではありません。
そのイベントは、当時自由が丘で行われていたスイーツフェスタ(?)の期間に行われていました。どこかの銀行の駐車場で行われていました。その横には本屋さんがあり、外にも古本が並べられていました。
「日本の美術シリーズ」と出会ってしまいました。「運慶と鎌倉彫刻」「小袖と能衣装」「日本美術の誕生」惹かれずにはいられない。
日本の美術シリーズを5冊ほど購入し、ウキウキ気分で帰宅。帰って早速読むかというと、そうではありません。まずは本棚にぶちこんで外から眺めます。・・そして、そのまま月日は流れました。
やっとこさ、今朝方「小袖と能衣装」を開いてみました。中には解説の文と図解がありました。日本文化の着物の発達は、やはり風土と関係しているなど。
一文を取り上げてみます。
日本に寒帯的な閉鎖式衣服でもなく、熱帯的な露出式衣服でもない、中間的なきもの形式が発達したのは、湿度から逃れるため通風のよいことを求めたからである。
きものって諸外国と比べると、中間的な存在なのね。初知り(´Д` )!
明治の小説とかにやたらと帯がどうやらこうやら、ゴブラン織りがどうやらこうやらと書かれています。具体的なイメージが湧かないという往年の悩みをこの本が解決してくれそう。
週末は小袖のことを考えながら過ごそう。
衣服が歴史を語る。モスバーガーがお腹を満たす。
ということで、モスバーガーを徒歩で買いに行ってきます!(´Д` )
「ただいま、我思うゆえに我あり状態!!」 思想を持つということ。
思想を持つということ
「継続は力なり」耕し耕し。うむうむ。
歳とればとるだけ、魅力的になりたし。勢いと外見だけでは、ある程度歳いったらきついのかなとか思う。(→勢いも外見もないけど(´Д` ))本当はしがみつきたくないのに、しがみついている姿。格好良くもあるし、格好悪くもある。
しがみつている云々だけじゃなくて、ある程度思想が固まっているかどうかなのかな。
芯から固めていくと、思想が出来上がるのじゃないかなと。漠然だけど。
思想の定義はよもや置いといて、芯から固められた思想を持つ人の言葉は、強く響く。言った内容に対しての賛成・反対はあるだろうけど、とにかく届く。芯から固められた思想、それはその人の持つキャラクターを超えたものだと思う。キャラクターを決定づけるのとは少し違う。そして、思想を芯から固めるひとつの方法は読書だとつくづく思う。携帯電話の中にはない。(電子書籍はあるけど)
「音楽してて伝えたいこととかある?」と友達が言っていたと何回か前のブログで書いた。伝えたいことの有無ではなく、自分自身そのものを伝える、つまりは思想を伝えると変換したい。
思想とポリシーは違うと思う。ここでいう思想とはすごく抽象的だけど、感受してきた粒がひとつのものとして、米粒を集めたおにぎりのように固められてくる。決して目には見えないけど、存在する。主体的に考える大切さ。
情報が多すぎても、主体になれない。サービスに時間を費やすのも大切だけど、強固なものを作るには孤独な時間が必要なように思える。
孤独というか、研ぎ澄ます時間というか。遮断され、ひとつひとつ選び取る瞬間こそが造詣を深くしていく。思想・・漢字的に言うと「思って想う!!」つまりは、理論が心と一致したことか。
・・あまりにも抽象的なので、、またどこかで書きます!(´Д` )!